― 明治中期から130年 ―
小青田(こあおた)、船戸のこの辺は、私が子どもの頃は360°田んぼで、のどかな風景が広がっていました。このあたりは柏市北部に位置していて、利根川に隣接しています。利根川はもちろん、手賀沼で開催される花火大会を見るのに最高の場所です。野口煙火店のはじまりは明治中期からで、私の代で創業約130年となります。
はじめは、農家として入所してきました。花火といっても、農家仕事の合間に遊びの延長でつくっていたそうです。
― 柏の花火の歴史 ―
家業として花火師をするようになったのは、昭和39年開催されたオリンピックの時でした。それまでは、農業をしながら花火を作っていたそうです。自己流で炭を焼いて、硝石・硫黄を調合して、信号用の花火を上げていたと聞いています。先日、家の整理をしていた時に見つけたのですが、先々代の時(大正4年)、笠間稲荷で花火コンクールがあり花火を出展したところ、昼の部、夜の部の両方で受賞していたようです。知り合いが教えてくれたのですが、「大正名人禄」に野口勇太
という名前が記されていました。よく見ると隣のページに大隈重信など著名人がのっていたので、大したものだなと思いました。父の代でも、成田全国花火コンクールで受賞していたようです。
― 訪れた時代の変化 ―
親の仕事を継ぐのが当たり前でしたので、20歳で煙火製造に携わり60年以上、花火の製造から打ち上げまでやっていました。 平成25年に、つくばエクスプレス区画整理事業で、市街地区域になりました。500軒新しい家が並ぶニュータウンが完成。「柏たなか駅」も出来て、とても便利になりました。田んぼばかりだったこの辺りは、一変、若いファミリー層が住む住宅街に変わりました。
煙火製造には厳しい決まりがあります。一回の花火大会の準備で、1トンの火薬を取り扱うのは当たり前。
大変危険が伴う仕事ですので、住宅街のそばでは花火の製造が出来なくなってしまいました。
現在は、外部業者の花火を取り扱い、準備や打ち上げに携わっています。
― これからも、柏の空に花火を ―
花火師は一尺玉一個、上がった花火をみただけで、誰があげたのかすぐわかります。花火が開くスピードは人によって違います。難しい色が綺麗に出ていると感心します。配合を聞いて作っても絶対に同じようには出来ません。
それぞれの職人がこだわってつくっている日本製の花火は、とても美しいと思います。オリンピックのメインの花火は見ればすぐわかります。
花火師人生で印象に残っているのは、余命数ヶ月の婚約者に花火を見せたいと依頼されたことです。流山の河川敷で花火を上げました。また、高校の文化祭の時に花火を上げたときに、学生さんが涙を流しているのを見たときです。皆が喜んでくれるのをみると、この仕事も満更じゃないな。と、思います。大変だけど、これからも花火の打ち上げに携わっていきたいと思います。