“かしわ文化知り隊”班長まちゃ子の「柏ゆかりの芸術家を訪ねて」1: 画家・塩水流功(しおずる いさお)氏―塩水流聿子(しおずる いつこ)夫人に聞く―

「あがったあがった!」(1992年)

1996 年に 71 歳で生涯を終えるまで、柏を拠点に創作活動された塩水流功氏。
「会話絵画」と名付けられている塩水流氏の作品は牧歌的で見る者の心を和ませ、一度見たら忘れられないでしょう。そのキャンバス一面に広がる青空――“塩水流ブルー”――は、子どものころから私のあこがれでした……。

実は、私は小学生のとき、塩水流功・聿子ご夫妻のご自宅の近所に住んでおり、毎週土曜日に絵画教室に通っていました。教えてくださったのは聿子夫人。
アトリエに入ると、いつも描きかけの功氏のキャンバスが置いてあって、 “塩水流ブルー”の中に、人々や樹々が毎週少しずつ追加されていくのを見るのが楽しみでした。

ご自宅で功氏にお会いした記憶はありませんが、両親と一緒に展覧会に伺ってお声をかけていただいたときなどは、聞きなれないアクセントにドギマギしたものでした。


九州から柏へ

――功先生は九州弁でお話しになっていましたよね?

聿子夫人:宮崎県の高城町(たかじょうちょう)というところで子ども時代を過ごしました。中学のときには、町内の有水(ありみず)という都城盆地を囲む山の中から中学校まで、毎日往復十里、自転車で通っていたんですよ。

――十里というと、一里が4キロですから、毎日40キロを往復されていたんですか?

聿子夫人:ええ。霧島山という大きな山がありまして、中学校まで行くとよく見えて、心が洗われるような気持ちになったそうです。

――その後、郷里の高城中学校で図工の教師になられたそうですが、上京されたのはどのようなきっかけだったのですか?

聿子夫人:絵画展に入選することが多くなって、東京への思いがつのったようですね。そこで、一念発起して上京して、最初は足立区に住んでいました。

――柏にいらしたのは?

聿子夫人:ほどなく柏第一小学校に勤務するようになったので、住まいを柏に移したのですね。

柏駅西口風景(1952年)


――その結果、人生の大半を柏でお過ごしになったわけですが、柏のどのようなところがよかったのでしょうか?

聿子夫人:何となく性に合っていたんじゃないですかね。あんまり都会でもないし、それほど田舎でもないし、上野も近いですし。

――美術館もある上野は特別なところだったということですね。

聿子夫人:そうですね。柏に来てからは、自転車で筑波の方まで写生に出かけていました。

――山があるところが落ち着くということでしょうか?

聿子夫人:ええ。1人で写生道具を積んで行っていましたね。例えば、この絵(「僕もやろう!」を指して)は、筑波山に行く途中にあるらしくて、そこで子どもが遊んでいたみたいです。

「僕もやろう!」(1995年)


功氏と聿子夫人との出会い

――聿子先生のご出身は?

聿子夫人:佐倉です。2年くらい佐倉の学校に勤めていたのですが、結婚を機にこちらに移ってきました。

――聿子先生は子どものころから絵がお好きだったんですか?

聿子夫人:そうですね。よく描いていました。

――どんな絵を描くのがお好きなのですか?

聿子夫人:大人になってからは、花を描くことが多いですね。身近にあって描きやすいですから。

――お庭にもきれいなお花がいっぱいありますね。

聿子夫人:眺めているのが好きで。

――今日のお召し物もお花ですよね。

聿子夫人:ああ、そういえば(笑)。

花(2014年)


――ところで、どうやってお二人は出会われたのですか?

聿子夫人:功が柏の先輩の先生方とよく集まっていて、そこに私も入れていただいたんです。

――結婚のきっかけは?

聿子夫人:もう忘れてしまいました(笑)。そんなロマンチックなものはないですよ。ごく自然に。


パリ留学、「会話絵画」の誕生

――結婚後、1967年に功先生はフランスに行かれたわけですが、どのような理由だったのでしょうか?

聿子夫人:もともと芸術の都パリにあこがれていて、一度はフランスに行ってみようと思ったようです。

――フランスに行きたいと言われたとき、聿子先生はどう思われましたか。素直に賛成できましたか?

聿子夫人:(きっぱりと)はい。「アカデミー・グラン・ショミエール」という学校で絵の勉強をして、ルーブル美術館に通ったりしていろいろ見てまわって、1年間の留学でいろいろな人と話ができてよかったんではないでしょうか。

――帰国後、がらっと作風が変わりましたね。それまでの都会的で技巧的な作品から、広い空、大きな木、そして小さく描かれた人間といった素朴で牧歌的な作品が制作されるようになりました。一連の作品は「会話絵画」と呼ばれていますが、どのようないきさつで誕生したのでしょうか。

聿子夫人:1973年に銀座の飯田画廊で個展を開きまして、そのとき題名のない絵がひとつあったんです。画廊の主人に「ボンジュールって感じなんだけど」と話したら、「それでいい、ボンジュールにしよう」と言われて、それから題名に話し言葉が使われるようになりました。

「おおきいね」(1986年)

 

“塩水流ブルー”のひみつ

――色使いも変化が見られますね。

聿子夫人:初めはこちらの工場地帯のような風景をよく描いていたので、色も暗い感じのものだったんですが、フランスに行ってから明るい色に変わりました。

――空の青い色も独特ですよね。

聿子夫人:自分が生まれ育った宮崎の空が真っ青でしたから、その青と重ね合わせているのだと思います。それでも、最初は、都会の煤煙で汚れたグレーがかった紫色の空がきれいだと思ったらしいんですよ。

「あたっていきな!」(1987年)

 

――青は何色も混ぜて使っているのですか?

聿子夫人:ほとんど直にチューブから出した青ですね。混ぜない。いきなりキャンバスにぶつけるような感じでした。

――元々青い色がお好きだった?

聿子夫人:そうだと思います。

――フランスに留学して原点に戻られたように思うのですが、“塩水流ブルー”は、郷里に対する思いなのではないでしょうか?

聿子夫人:それはあると思いますね。郷里の空の青さがずっと頭にあったんでしょう、筑波山を描いていても、どこの国の空を描いても。宮崎の空の青さと、自分が好きな青と、ずっとその青を追いかけていたんですね。

――功先生の回顧展が1998年に開催されたとき、聿子先生は図録のごあいさつ文に、「1日1回は絵筆をとることを自らに課し、一生に1枚でも満足できる絵が描ければ、と言っておりました」と書いていらっしゃいますが、功先生にとって満足できた絵というのはあったのでしょうか?

聿子夫人:達成できたかどうか本人に聞かないとわかりませんが、とにかく一生懸命でした。朝から晩までほとんどアトリエにこもっていましたから。一日じゅう探求していた感じです。

――聿子先生にとって功先生はどんな方でしたか?

聿子夫人:穏やかな性格の人でした。

――最後に、功先生が使われた筆などは見せていただけないでしょうか?

聿子夫人:片付いていませんが、アトリエにありますよ。

 

長男の努氏がアトリエに案内してくださいました。青い絵の具はフランスから取り寄せていたこと、自身は制作中の父のアトリエに入ることがなかったことを伺いました。
聿子夫人や努氏から、何か特別なエピソードを引き出そうとしても、「特別なものは何も…」とかわされてしまいます。
家族にとって、画家・功氏は特別な存在ではない。功氏の絵と同様、塩水流家にも大きな時間が流れているような気がしました…。

アトリエの戸を開けると、鼻をつくようなインクの匂いのなかで、“塩水流ブルー”が一面に塗られた小ぶりなキャンバスが目に飛び込んできました。画家のサインが入ることがなかった、この未完の絵は青空がまぶしく、「よく来たね」と私を温かく迎えてくれたような気がしました。

塩水流 功(しおずる いさお)

大正13年(1924年)11月18日宮崎県北諸県高城町に生まれる。

昭和20年(1945年)宮崎師範学校卒業


昭和27年(1952年)上京。柏第一小学校教諭となる。


昭和30年(1955年)東京教育大学教育学科研究生修了。


昭和31年(1956年)結婚。


昭和42年(1967年)渡欧。


平成8年 (1996年)6月18日逝去(71歳)。


平成10年(1998年)3月柏市民ギャラリーにて回顧展開催。

      

塩水流 聿子(しおずる いつこ)


日本美術家連盟会員

昭和7年 (1932年)千葉県佐倉市に生まれる。


昭和28年(1953年)千葉大学教育学部卒業。


         佐倉市立弥富小学校勤務。


昭和31年(1956年)結婚。柏第三小学校勤務。

 

昭和40年(1965年)光ケ丘小学校勤務。翌年退職。


取材日:2020年7月23日
取材場所:塩水流邸
撮影:紅林貴子

この記事を書いた人:“かしわ文化知り隊”班長まちゃ子こと石井雅子

柏生まれ柏育ち。市民活動家の両親が2015年前後に他界したことをきっかけに、地元に興味を持つようになる。
2020年4月からkamonかしわインフォメーションセンターに勤務。以来、流行りのものからマニアックなものまで、柏のいろいろな魅力に触れ、エキサイティングな日々を送っています。

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