“かしわ文化知り隊”班長まちゃ子の「柏ゆかりの芸術家を訪ねて」4: 日本画家・福永明子氏

「JOBANアートラインかしわ」の実行委員会にただひとり芸術家として参加し、柏ゆかりの新進作家の展覧会「共晶点」の企画運営にも携わる福永氏。
2020年の10月に開催された第9回「共晶点」を訪れた私は、福永氏の作品の数々を眺めているうちに、そのどれもが懐かしさと未来への希望を同時に志向しているような印象を受けました。
柏の中堅アーティストが、どのような思いで絵に向かい、柏に関わっているのか――いしど画材での絵画教室終了後の福永氏にお話を伺いました。

子ども時代――『りぼん』最年少デビュー

――日本橋生まれ柏育ちということですが、柏にはいついらしたのですか?

福永:赤ちゃんのときです。

――ご両親が柏にゆかりがあったとか?

福永:父は日本橋の人で、子どもの頃、林間学校で中央区所有の柏学園(戸張)に来ていたこともあって親しみがあったのか、柏の土地が売り出された昭和35年に将来のために買っておいたそうです。そしてちょうど私が生まれたときに、京都から東京勤務になり、柏に家を建てました。

――では、柏っ子といっていい感じですね?

福永:はい。日本橋はおじいちゃんとおばあちゃんの家という感じで。

7歳のときの作品。福永氏と妹さんが遊ぶ様子を描いたもの


――子どもの頃から絵が得意だったのですか?

福永:実は忘れられないエピソードがあるんですよ。小学2年生のとき、担任の先生がクラス全員に手作りの賞状をくれたことがあったんです。私は器械体操とか陸上とかやっていて得意なのは体育だと思っていたので、当然、体育賞だと思っていたんですよ。そうしたら漫画賞だったんです。

――その頃から漫画を?

福永:ええ。自分が描いた漫画をロッカーの上に置いて、クラスメートに自由に読んでもらっていたので、先生はそれを見ていてくださったんですね。そのとき、自分の突出してできる能力は絵なんだという自覚を得たかなと思います。

――その先生がいなかったら、画家・福永明子はいなかった?

福永:かもしれません(笑)。その先生はずっと応援してくれて、つい最近も展示を見に来てくれたりして、いまだに交流があるんですよ。

――では、子どもの頃は絵画というより漫画を?

福永:はい。3年生からは少女漫画を描いていました。

――どんな方面の?

福永:私は“りぼん派”だったので、少女マンガ~って感じの(笑)。

――そして、『りぼん』の当時最年少デビューを果たされるんですね。

福永:中学2年のときに初投稿で入賞して、2回目の投稿で努力賞をもらったんです。当時、『りぼん』は3か月に1回新人をデビューさせることになっていたんですが、その3か月の中で私が一番成績がよかったので、デビューとなりました。

――どんなストーリーだったんですか?

福永:恥ずかしい~! 学園ものの……。

――恋愛あり?

福永:そうそう(笑)。それがデビュー作で、そのあと高校1年と2年のときに3作発表しました。


京都へ――日本画家を目指して

――そのときは漫画家になりたいと思っていたわけですよね。

福永:ええ。その流れで美大に行くのが当然という感じだったので、美術研究所で美大を受験するための準備をしていたんですが、デッサンをやりすぎて漫画が描けなくなってしまって。

――それは時間的にですか?

福永:いえ、あのでっかい目が描けなくなって。人物デッサンをたくさんしていると、人体の構造がわかってくるので。それと、その頃、『りぼん』が低年齢化を図っていて、違和感が生じてきたんですよね。そのため、京都の美大に進んだあと、絵の方が面白くなっちゃったんです。

――なぜ日本画を選んだのですか?

福永:線の勉強をしたかったんですよ。最初は漫画の線がうまくなりたいという動機だったんですけど。あと、あの頃、上村松園さん(※1)や東山魁夷さん(※2)の絵が好きだったんです。父が大丸百貨店の営業をしていたので、その仕事の関係で画集がうちにあって、よく見ていたんですよ。

(※1)上村松園(うえむらしょうえん、1875~1949年):近代京都画壇を代表する日本画家。美人画の名手として高く評価され、1948年には女性として初めて文化勲章を受章した。息子は日本画家の上村松篁。

(※2)東山魁夷(ひがしやまかいい、1908~1999年):昭和を代表する日本画家。静謐で叙情性あふれる風景画は、日本人の自然観や心情を普遍的に表現したものとして高く評価されている。

――なぜ京都の美大だったんですか?

福永:上村松園の影響です。あの頃、松園の生涯を映画化した『序の舞』を見ていたこともあって。あと…ミーハーなんですけど、当時、ロックが好きで、44MAGNUM(※3)のファンだったんですよ。

(※3)44MAGNUM(フォーティフォーマグナム):1977年結成。日本のヘヴィメタル・バンドの草分け的存在として知られる。メンバー全員が髪を金色に染めた派手なルックスは、後のヴィジュアル系バンドやパンクバンドにも多大な影響を与えた。

――その方々が京都出身で?

福永:そのドラムの人のファンで、彼が京都出身で(笑)。そのくらいの歳の動機って、そんなミーハーなものだったりしませんか?

――私にも心当たりがあります(笑)。

福永:とにかく独立心が強かったので、家を出たいという思いが強かったんですよ。東京だと通えちゃうし、何より京都に住みたくて。呼ばれているような感覚でした。

――そうして、京都芸術短期大学(現:京都芸術大学)の日本画コースで学ばれたわけですね。卒業してからは何をされていたんですか。

福永:京呉服友禅の会社に就職しました。当時はバブル全盛期で、京都で日本画を勉強していた学生の半分くらいは呉服屋さんに就職しましたね。でも、作品づくりの時間がもてなかったので1年半でやめたんです。そのときは画家になりたいと思っていたので。

――それでも生活のための収入は必要ですよね?

福永:実は、学生時代から映画村で似顔絵のアルバイトをしていたので、23歳で似顔絵師として独立しました。その後、25歳のとき、京都タワーに営業をかけて似顔絵コーナーのテナントを出させてもらったんです。

――京都はどんな街でしたか?

福永:京都は街そのものが芸術なんですよ。触れるものすべてに美的感覚を刺激されるんです。

――それは古いお寺などに?

福永:風景ですかね。四季の移り変わりとか、街並みとか。あとは人々のセンス。洗練されていてシンプルで、日本人の美的感覚にかなった街。その空気感が離れがたくて、帰ってくる気は全然なかったんです。

23歳。清水寺で


柏へ――石戸新一郎氏との出会い

――では、そんなに好きな京都をなぜ離れることに?

福永:結婚を前提に付き合っていた彼氏と別れたことですね…。親が帰ってくればと言ってくれて。帰りたくて帰ったわけじゃなかったんですけど、帰ってみたら、柏が面白い街になっていたんですよ。

――高校卒業して以来ですよね?

福永:9年ぶりでした。

――どんな風に変わっていたんですか?

福永:私が高校生のときは、若者がショッピングする場所はローズタウン(※4)くらいしかなかったんですが、ステーションモールができて、面白いお店がいっぱいできていて。それと、石戸さんのおかげで、面白いまちづくりのしかけがいっぱいあったことですかね…。当時、いしど画材さんの下で似顔絵を描かせてくださいって営業かけようとしたら、門前払いでしたけど(笑)。

(※4)柏ローズタウン:1979年オープン。柏髙島屋ステーションモールの前身にあたる複合商業ビル。

――それでも、今日もこうして絵画教室をここで開催していらっしゃいますし、石戸さんとの縁は深いんじゃないですか?

いしど画材の絵画教室で、生徒さんを指導する福永氏


福永:
ライヴペインティングを仲間うちでやったとき、石戸さんと仲良くなって、それがきっかけで、2006年から毎週土曜日に似顔絵をやらせてもらえるようになりました。2014年に出店をやめましたが、2017年からこの絵画教室をやらせていただいています。

――このライヴペインティングは、アートラインかしわの企画として始めたんですか?

福永:違うんです。

――仲間うち?

福永:勝手に始まりました(笑)。

――どういうお仲間ですか?

福永:「モナイゾ」という倉庫を改造したクリエイターのたまり場があったんですよ。

――どこにあったんですか?

福永:旧水戸街道沿いのヤオコーの裏のあたりです。

――ひょっとして当時はケーヨーデイツーでは?

福永:そうそう、デイツーの裏。2階がギャラリー、1階に音楽スタジオがあって、ミュージシャンやアーティストが毎週集まっていたんですよ。私たちはクロッキー会をやっていて、モデルを交代でやって、描きあって。そのうちミュージシャンの人たちと一緒にイベントをやろうということになって、演奏と絵を描くパフォーマンスのショーを2006年から始めたんです。

――コラボレーションということですね?

福永:はい。私、コラボが好きなんですよ。感性が刺激しあう感じで。「ドッペルナンチャラ倉庫」というイベント名で、2か月に1回くらいの頻度で開催していました。

「ドッペルナンチャラ倉庫」のパフォーマンス(2008年)


――アートラインと関わるようになったきっかけは?

福永:ドッペルのパフォーマンスを見に来た石戸さんが気に入ってくださって、2006年のアートラインかしわ発足と同時に駅前通りで「ライヴペインティング30vs30」をやることになったんです。アートラインの主要なイベントのひとつとして。

――そのときから実行委員をされているんですか?

福永:最初は私じゃなかったんです。ドッペルの別のメンバーが委員を務めていたのですが、その人が1年でやめてから、私になりました。


日本橋との接点――シャッター浮世絵

――それが今に続いているんですね。同時期に、日本橋のシャッターチャンスプロジェクトにも関わっていらっしゃいましたよね? どのような経緯だったんですか?

福永:私が卒業した京都芸術短期大学の東京事務所が日本橋にあって、お店の天井画を手掛けたときのポートフォリオを見せたことがあったんです。ある時、日本橋の老舗巡りツアーを行っている「日本橋めぐりの会」の代表の川崎晴喜さんが、「シャッターに浮世絵を描く企画を考えているんだけど、誰かいないかな」と、東京事務所の人にきいたんですよ。そこで、日本橋生まれということもあって、私を紹介してくれたんですね。

――日本橋の街を夜歩くと、江戸時代の浮世絵が描かれたシャッターに遭遇するという粋な企画ですよね。

福永:日本橋を江戸の風情でよみがえらせるというコンセプトで始まりました。

1957年創業のレストラン「東洋」のシャッター。
福永氏は歌川広重の「東海道五十三次 日本橋朝の景」を描いている(2008年)


――当然、制作もお店が閉まってから…夕方からお描きになるんですよね?

福永:ええ…。1週間もあればできると思っていたんですが…。

――どのくらいの日数がかかったんですか?

福永:それが…シャッターの凹凸のことを考えていなかったんですよ。1本線を引くのに何時間もかかって。まっすぐ見えるためには、真正面を直線に合わせなきゃならない。1作目は1日15時間、15日間かかりましたね。

――15時間? 日中もシャッターが閉まっていたんですか?

福永:そのお店は老舗の刃物店だったんですけど、入り口が2つあって、1つを閉じてもらったからできたというのがあります(笑)。

――全6作品を手掛けましたよね。

福永:とても1人ではできないとわかったので、人数を増やしてもらって。途中から中央区と都の補助金も出ることになったので、6作目までがんばりました(笑)。アートラインも掛け持ちしていたので、シャッターの前で電話で打ち合わせしたりしていましたよ(笑)。

――このプロジェクトで何か得たものはありましたか?

福永:実は、2010年に、プロジェクトに参加した10人の画家と「Shutter10 Stance」という展覧会を開いたときに、日本画に戻ったんですよ。ほかの子に負けるもんかというのもあって(笑)。

――福永さんは、シャッターチャンスプロジェクトのパイオニアでもありますしね。

福永:あと、このプロジェクトは、若手の画家と画商をつなぐという目的もあったんです。月に1回開催されていた店長会にもよんでいただいて、今所属している銀座柳画廊の副社長の隣に座らせてくれたんですよ。そこでご縁ができて、2011年に、プロジェクトに参加した5人の展覧会「バーサス日本橋」を開催したとき、副社長が見にいらして作品を買ってくださったんです。

――それは大きな縁でしたね。

福永:そこからですね、すべてがひらけたのは。それまでは似顔絵やイラストの仕事で作品にかける時間がなかなかとれなかったので。その時に、銀座柳画廊の取扱い作家にもしてもらえました。

――銀座柳画廊に所属してから依頼されたお仕事などもあるんですか?

福永:個展の開催のほかに、大きいところでは、2017年に京都の能舞台の鏡板も手掛けました。銀座柳画廊の社長がお能を習っている観世流能楽師の分林道治先生の能舞台です。何人か候補がいる中で選ばれた決め手は、シャッターの仕事をしたことも大きかったらしいんですよ(笑)。

――やりがいがあったのではないですか?

福永:はい。けっこう楽しかったんです。分林先生、建築家の津田茂さん、工務店の社長、私の4人はほぼ同世代で、先生が「僕たちの世代で文化の拠点を作りたい」っておっしゃったので、「力になりたい」と思って。

京都「真謡会館」の能舞台の鏡板に描かれた松(2017年)


共晶点とは?

――福永さんの柏での代表的な活動のひとつである「共晶点」の話を聞かせてください。

福永:2012年に市民ギャラリーを使いませんかという打診が、アートラインかしわ実行委員会にあったんです。

――企画を福永さんに依頼されたんですね。

福永:はい。そこで、私、コラボが好きなので、いろんなジャンルを集めようと。

――どのようにして集めたんですか?

福永:柏美術学院の院長に相談したら、アルバイトしている芸大生を紹介してくれて。また、私の知り合いの画家も声をかけました。日本橋のシャッター仲間には柏在住の画家が2人もいたんですよ。でも最初は本当に手探りでした。

――「共晶点」とはどういう意味なんですか?

福永:私が名づけたんですが、物理用語なんです。複数の成分が混ざり合った溶液から、ある一定の温度で結晶が生じる、それがこの場でありたいという…。毎回メンバーも違うので、違う混合物が生まれるし、温度も違う。いろいろなアーティストとインスパイアしあって、違う人とか違うジャンルにふれたとき、相乗効果というか、まったく別のものが生まれるようなイメージです。

――「共晶点」は2012年から、9回開催されていますが、この間の変化などはありましたか?

福永:ここ2、3年、色が出てきたなという感じですね。会の雰囲気とか作風とか、「共晶点」にあっている人とか、メンバーが決まってきたという感じで。あと、毎年続けて来てくださるお客さんも増えましたね。

第9回「共晶点」で自身の作品《blue sky》と(2020年10月)


――柏以外から来るお客さんもいらっしゃるのですか?

福永:はい。どの作家さんもそれぞれに活躍されているので、コレクターさんがお目当ての作家の作品を見に都内からわざわざ来てくれたりします。あるとき、コレクターさんが「柏って案外、文化度が高いんだね」と話していらして、すごくうれしかったんです。そういう街になりたいというのがアートラインの目的でもあるので。

――思い出深い作品はありますか?

福永:2019年の共晶点」で出した桜ですかね…。畳5畳分の絵で、その前に立つと、桜の木の下に立ったときのような気分になれるんですよ。

アートラインかしわツアーでお客さんに解説する福永氏(2019年10月)


――どのような思いで描いたんですか?

福永:私にとっての桜は「人生」って感じがするんです。生きるよろこびがあふれる感じ。一瞬で散ってしまうからこそのよろこび。満開の桜の下でスケッチしていて、風がぶわーっと舞うと、涙が出ちゃうときがあります。

――それは癒しですか? それとも、パワーをもらえるような感じですか?

福永:恍惚に似ています。以前描いた桜の絵のタイトルに「悦」と名付けたことがあるんですが、その“よろこび”なんです。桜を描いていると、生きている実感が得られるんですよ。

――これはどちらの桜の木なんですか?

福永:日立台のレイソルのスタジアムの隣にある木です。



福永氏の「かしわ愛」

――福永さんにとっての柏とは?

福永:ホーム。

――何に対しての?

福永:私は3つの故郷がある気がしていて、京都は魂のふるさと、日本橋は心のふるさと、柏は今生活している私のふるさと。高速を車で走っていて「柏」の字が見えると、すっごく安心するんですよ。キュンとするときもある。すごく愛おしくて。

――どのようなところが愛おしいと感じるんでしょう?

福永:うーん。他の都市と比べてここが優れているというところが特にあるわけでもないのに、なんかみんな柏を好きでしょ。すごいことですよね。

――不思議ですよね。「かしわ愛」の強い方が多くて。

福永:ええ。私が柏がいいなと思うのは、誰かが先導しているわけではなく、みんなが一部だということなんです。気易くて明るくて気負ってなくて。

――確かにガツガツしたイメージはないですよね。

福永:あと、二番街で似顔絵を描いていたときも、人との距離感がいいなと思ったんです。通りかかった方が「あらいいいわね、似ているわね」と声をかけてくれたりすると、モデルになっているお客さんが「あなたも描いてもらいなさいよ」と言っているんで、「知り合いなんですか」と聞くと、そうじゃないって(笑)。距離感が近すぎず遠すぎず、気楽な感じでいいですよね。

――市民からの手ごたえを感じるのはどんなときですか?

福永:そうですね…。2006年から始まった「ライヴペインティング30vs30」では、いつもの街に“イーゼルが並んでいる非日常”が突如として現れるんですが…。

――駅前のハウディモールのホコ天で。

福永:はい。それこそが石戸さんが求める風景で。何回かやっていくうちに、「今年もアートラインの季節ね」って通行人の方が言っているのを聞いたとき、“柏の風物詩”として認知されてきているんだと思いましたね。

今や柏の風物詩となった「ライヴペインティング30vs30」


――イーゼルが並んでいる光景は壮観ですよね。

福永:アートラインの主旨が一貫して「出くわす」なんです。ずっとあるモノじゃなくて、たまたま出くわすコト。アクシデントみたいに、たまたま出くわす瞬間があるのが柏っぽいと思うんです。まちなかに唐突に現れる「現象」みたいな。そこに魅力を感じますね。

――他にはどうですか?

福永:2016年に、ダブルデッキの手すりのガラス面に、ピンクの文字で、柏市民の声を貼り出す「ピンクプロジェクト」という原高史さんのイベントがあったんです。その中で「若いアーティスト達の作品をステーションモールの方で展示するでしょ(※5)、文化的なものが集まってきた感じよね」と書いてあるのを見つけて、うれしかったですね。これ「共晶点」のことなんです。

(※5)パレット柏が創設されるまでは、市民ギャラリーはステーションモール内にあった。

「ピンクプロジェクト」で貼り出された市民のメッセージ(2016年)


――アートラインかしわが着実に市民に浸透してきているということですね。今後はアートラインや「共晶点」をどのように展開したいと考えていらっしゃいますか?

福永:そうですね…特別なことは考えていないですが…(笑)。私ができること、作家目線でできることをやっていきたいなと思っています。

――個人としては?

福永:2021年 4月に銀座柳画廊で個展を開催するので、今、制作に追われています。先ほどお話した桜の大作も出展するんですよ。

 

桜が好きだと語る福永氏。それは、私が最初に福永氏の絵に感じたもの――過去と未来の相反するベクトルが存在する瞬間のイメージとつながるような気がしました。
また、まちなかに突如として現れるアートラインの非日常が柏らしいという福永氏の言葉に、ある考えが頭をよぎりました。
福永氏が語る桜の美しさは決して刹那ではなく、断続的な瞬間である、と。
だとすると、ゲリラ的な非日常の出現が似合う柏、それを楽しむ人々が住む柏もまた、桜のような趣きをもった街といえるのではないでしょうか。

福永明子(ふくなが あきこ)

1968年 東京日本橋生まれ。1983年『りぼん』に漫画家最年少デビュー、以後3作発表。
1989年 京都芸術短期大学(現:京都芸術大学)日本画コース卒業。
1995年 日本画公募 第29回 東方展 入選
2006~2009年 柏ライヴペインティングイベント企画/運営/出演
2007~2009年 日本橋めぐりの会 シャッター浮世絵製作(計6作)
2008年より「JOBANアートラインかしわ」実行委員
2010年 第28回 上野の森美術館大賞展 入選
2012年よりアートラインかしわ「共晶点~柏ゆかりの新進作家~」企画/出展
2014年 個展「Flowers of Decade」(いしど画材)
2016年 個展「うつしよ(現世)」(銀座柳画廊)
2017年 京都 真謡会館 能舞台鏡板製作
2018年 個展「もののあはれ」(銀座柳画廊)
2021年 4月12日~24日 銀座柳画廊にて個展を開催予定


取材日:2020年12月1日
取材場所:いしど画材
撮影:紅林貴子

この記事を書いた人:“かしわ文化知り隊”班長まちゃ子こと石井雅子

柏生まれ柏育ち。市民活動家の両親が2015年前後に他界したことをきっかけに、地元に興味を持つようになる。
2020年4月からkamonかしわインフォメーションセンターに勤務。以来、流行りのものからマニアックなものまで、柏のいろいろな魅力に触れ、エキサイティングな日々を送っています。

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