手賀沼の最奥部、大津川の右岸河口に位置するのが大井地区です。大津川はこの地方でも最大級の谷津であり、古くから米作りが行われ、村が営まれてきました。今回の歴史散歩は、将門伝説がのこり、古代からのロマンに満ちた大井を訪ねます。
柏市役所沼南庁舎
柏市の沼南庁舎の2階には、柏市に関する文化財資料・歴史資料などのほか美術品を展示しています。
常設展示では、原始・古代、中・近世、近世以降などを紹介。旧石器時代の遺跡や、城跡や集落跡の出土物を展示しています。近代では鉄道や道路網の整備を契機に、東葛の中心都市として発展を遂げる様子を展示しています。
美術品では「砂川コレクション」の中から、芹沢銈介作品の数々を企画展示しています。
阿弥陀様板碑
福満寺の境外地である阿弥陀堂には、初発期の下総板碑の典型といえる優品が祀られています。高さ186cm、幅48cm、厚さは最大で11cmあり、阿弥陀三尊の種子が刻まれています。平成元年、旧沼南町が掘り起こして調査を実施しましたが、造立年月日・造立者・造立趣旨などは刻まれていませんでした。純粋に信仰目的で造立したもので、時期は山形の頭頂角・横二条線・天蓋瓔珞・梵字の涅槃点などの形から、鎌倉時代の中期、下総板碑が出現したころと推定されました。大井地区の恩田家には、柏市域最古の文永2年(1265)銘の下総板碑が屋敷神として祀られていました(非公開)。やや小ぶりながらよく似た彫法の特徴から、阿弥陀様板碑も同じ時期の造立と考えられています。
板碑とは供養の為に立てられた塔婆の一種で、鎌倉時代には地方豪族や僧侶が、南北朝から室町時代には中流以上の庶民にまで建立が広がっていきました。材質から筑波山麓の黒雲母片岩製の下総板碑と、荒川流域の緑泥片岩から作られた武蔵板碑に多く分けられますが、手賀沼南岸は板碑の分布密度が濃い地域です。中でも多く確認されているのが大井地区で、断碑も含め、旧沼南町の調査で収録された428点のうち、122点と圧倒的な数を誇ります。大井地区にはこの地方を支配した豪族と、それを支えた人々が暮らしていたのです。
船戸古墳群
眼下に手賀沼を見下ろす標高22メートルほどの台地に広がる古墳群。確認された古墳の数は40基で、前方後円墳が7基、円墳が33基でした。古墳群が造られた時期は出土品から6世紀から7世紀と推定され、このうち37号墳からは横穴式石室が見つかり、飾り太刀の捻り環・耳環・太刀・馬具などが出土し、相応の権力を持った人物が埋葬されたのでしょう。近くには古墳時代から奈良時代の住居址が検出された大井東山遺跡があり、船戸古墳群を造った人々が暮らしていたと考えられています。
【将門記と大井津】
『将門記』は平安時代、将門の乱について紛争を起こした経緯から新皇として国への反逆し、死にいたるまでを記述した書です。乱の鎮圧後、それほど時代を経ずに書かれたとされ、将門研究の基本資料とされています。この中に「王城を下総国の亭南に建つべし。兼ねて檥橋(うきはし)を以て京の山崎となし、相馬郡大井の津を号して京大津と為す。」という記述が見られます。大正元年、風早尋常小学校の教諭であった関忠太郎は「風早唱歌」の中で、「大井は天慶3年に 将門よりしその時は 近江の大津になぞらえて 花の如くに栄えして」と詠いました。
冒頭でも紹介したとおり、大井という地名は「両口布袋墨書」「石山寺写経所解」といった正倉院文書や将門記に度々登場します。その比定地については諸説がありますが、大井東山遺跡の発掘成果や、中世から近世まで切れ目なく資料に登場することからも、柏市大井は最有力の候補地と言えるでしょう。
大井東山遺跡
昭和59年、霊園工事に伴って実施された発掘調査によって、弥生時代から奈良平安時代までの遺構が確認され、大井東山遺跡と名付けられました。中心となるのは古墳時代の住居址35軒、奈良平安時代の住居址16軒ですが、後者から注目される発見があったのです。掘立柱建物跡が見つかり、近くから「新生寺」と読める墨書土器が出土したため、調査担当者は高床式の寺院であったと推定しました。別の住居址からは、奈良三彩釉陶器の小壺も発見されています。役所や官寺などから出土するもので、庶民の生活用具ではありません。ある程度の位階を持った人物の持ち物なのです。大井東山遺跡からの出土品の一部は、福満寺に展示されています。
福満寺
手賀沼から三反田谷津と呼ばれる谷をさかのぼると、三方を木々に囲まれ静寂に包まれた福満寺の境内が広がります。周囲の森からの湧水も多く、かつて村人たちはこの水を利用して種籾を浸しました。福満寺はいまから1200年前の桓武天皇の代に、尊慶上人によって創建されたと伝わる古刹で、寺に残された旧薬師堂棟札の写しには「承和11年(844)11月8日 南相馬ノ庄大井郷別当福満寺」とあります。長い年月の中で造立された中世石造物も多く、板碑は延慶3年(1310)を最古に60枚以上に上り、柏市域では群を抜いています。境外地に祀られている車の前五輪塔や阿弥陀様板碑も特筆すべき石仏で、この地域の歴史を跡付ける資料となっています。火災にも多く見舞われたようで、戦国時代に兵火を受けたのち、江戸時代の延宝年間(1673~81)と享保年間(1716~36)には、伽藍の大部分が灰燼に帰し、多くの資料を失いました。現在、近世の建物で残っているのは鐘楼堂と観音堂だけなので、こうした石造物は貴重です。
香取神社の鳥居の左隣に建つ、山門を兼ねた鐘楼堂が福満寺の入口です。享保14年(1729)、恵深(けいじん)和尚は寺に鐘楼がないことを嘆き「秘仏聖観音」を背にして房総を巡錫し、浄財を募ったと伝えられるお堂です。高欄が廻らされた2階部分に梵鐘が吊るされ、毎年暮れには地区の人々によって、除夜の鐘が撞かれ、大井地区の風物詩となってきました(昨年はコロナ禍で中止)。「手賀沼八景」の中で「大井の晩鐘」と詠われ、福満寺のシンボルとなっている鐘楼堂です。
大井香取神社
福満寺に隣接して、大井地区の鎮守として村人たちから信仰を集めた香取神社が鎮座しています。本社は香取市の香取神宮で、分社は全国に400社を数え、利根川流域に特に多く祀られています。利根川水系の一つ手賀沼に面した柏市域に多く勧請されたのは自然な流れでしょう。赤い大鳥居をくぐると、椎の大木が生い茂る静寂な空間が広がります。正面に見える社殿は昭和50年に新装されたものですが、中に納められている本殿は安永年間(1772~1781)の建造物です。中には七個の紋章が彫られており、大井地区の草分け7軒の家紋と伝えられています。
車の前五輪塔
福満寺の南側少し離れた畑の中、シイなどが繁る小さな森に「車の前五輪塔」という、手賀沼周辺で最大最古の五輪塔が立てられています。。かつて妙見堂が祀られていたことから地元では妙見様と呼ばれ、人々から信仰を集めてきました。五輪塔は、地・水・火・風・空の五大元素から形成されているとする、仏教の宇宙観から発して造立されたものです。車の前五輪塔は、安山岩製で高さ160㎝、笠石の一部に欠損がみられるものの、各輪に五大元素を表わす種子が刻まれ、年号などはありませんが造られたのは室町初期と推定されます。妙見菩薩は国土を擁護し敵を退ける仏として、多くの武家に信仰されましたが、特に相馬氏が崇敬したことは有名で、ゆかりの地にはほぼ例外なく祀られました。この五輪塔も、当時この地方を支配していた相馬氏の墓と考えられ、濃密に残る将門伝説も彼らによってもたらされたものでしょう。この塔には次のような伝説が残されています。
将門伝説「車の前」
平将門には車御前という美しい側室がいましたが、天慶の乱で将門が敗死した時、お腹には赤子を宿していました。彼女の身にも危険が迫ったとき、叔父の中村才治夫婦は実家のある相馬郡大井の知人宅に匿い、無事に男の子を出産します。若松と名付け、自らは出家して、夫の護持した妙見さまを祀るお堂を建て、静かにその菩提を弔いました。ここが五輪塔の建っている妙見堂跡です。東側の小さな池は「鐘ノ井」と呼ばれていますが、妙見堂にあった鐘楼堂が大風で倒壊し、梵鐘が井戸の落ちてしまいました。水は鉄の赤錆びた色となり、この後清むことはなくなったのです。また、福満寺の裏山には車の前が、朝夕その姿を映したという「鏡の井戸」も残されています。
妙照寺
長国山と号する日蓮宗の寺院で、境内には寺の歴史を物語るように樹齢数百年の大杉が聳えています。『妙照寺由来』(享保18年)によれば、日蓮上人の高弟日弁上人は、駿河の常諦寺や上総の鷲山寺を開いたのち、正応元年(1288)頃大井村を訪れ、真言宗の寺院を改宗して妙照寺を開創しました。寺には「南無妙法蓮華経」と刻まれた応永10年(1403)からの題目板碑4基が現存し、室町期の布教の様子を伝えています。
柏の美術の拠点「中村順二美術館」
ドイツ人留学生マルテの『つながるまち歩き』9:美術の拠点(kamonオリジナルブログ より)
柏には美術館がない」と思っている人も多いと思いますが、でも実は、素敵な美術館があります。『中村順二美術館』はとてもアットホームなところです。館長の中村勝さんがダウン症を抱えていた息子・順二さんの作品を展示するために設立して、それから柏内外の多くのアーティストが企画展で様々な作品を展示しています。順二さん他、アーティストの目で世界を見ると、普段考えないことや特別ではないと思っていたことにも新たな美の発見があるかもしれません。たまに自分の目線を変えるだけで、価値観が大幅に変わる可能性があると思います。(ブログにつづく)
(参考)
『沼南町史 史料集金石文Ⅰ』
『沼南町史(一)』・『沼南風土記』・『沼南風土記(二)』
柏の古文書や石像をず~っと調べて40年。
柏の歴史って素晴らしいので、ぜひお知らせしたいと思っています。