今回の歴史散歩は、柏市の最も東に位置する手賀・布瀬の両地区です。渡辺崋山が『四州真景図巻』で著したとおり、この辺りは、「手賀島」と呼ばれていました。言葉の響きから、世間から隔絶された陸の孤島、情報の過疎地帯という負のイメージを持たれやすいのですが、これは正しくありません。利根川水系に直結し、三方を手賀沼と金山落しに囲まれた舟運の適地として潤い、江戸へのカモやウナギなど水産資源の供給源としても知られていました。今回の歴史散歩は、豊かに残る田園地帯を自転車で走りながら、県内有数の初期古墳や、戦国豪族の足跡、関東地方で最古級の教会堂を巡ります。
道の駅しょうなん
「道の駅しょうなん」
最近リニュ―アルした「道の駅しょうなん」。駐車場も広くなり、地元野菜も豊富です。ここがサイクリングの起点で、レンタサイクルもあります(数に限りあり)。
レンタサイクルについては、コチラをご覧ください。
道の駅しょうなん
柏市箕輪新田59-2
TEL 04-7190-1131
手賀の丘公園
昭和62年に開設された「手賀の丘公園」は、総面積24万㎡のうち、森が21万㎡を占める緑の県立公園です。森の植生は多岐にわたり、針葉樹はスギ・マツ・サワラなど、常緑樹はシイ・カシ・モチノキ・ヒイラギなど、落葉広葉樹はクヌギ・コナラ・アカメガシワ・ヒイラギなどで、そのほか草木類も多く繁茂しています。園内には無数の土盛りが見られますが、片山古墳群と呼ばれる小型の古墳と、中世から近世にかけて造られた塚です。この公園は静かな自然のなかで、豊かな歴史に触れることができる、貴重な空間なのです。
住所 柏市片山275
【公園について]04-7167-1148(都市部 公園緑地課)[公園内のキャンプ場等の有料施設について]090-1403-1306(RECAMPしょうなん)
北ノ作古墳群
手賀の丘公園から谷を隔てた台地上に、北ノ作古墳群が築かれています。1号墳は突出部(前方部)をもつ方墳で、全長21.5ⅿ、高さ3ⅿ。2号墳は前方後方墳、全長33.5m、高さ3.5mで、2基とも大型ではありません。注目されたのは、1号墳から出土した弥生系の銅鏃などにより、古墳発生期の築造と指摘されたからです。近くには、これを造った人々の集落と考えられている経塚遺跡や、手賀の丘公園内の片山古墳群、石揚遺跡・オツコシ遺跡も確認されています。北ノ作古墳は、現在の手賀沼を見下ろす水上の要衝に、手賀沼周辺で一番早く築造された古墳なのです。
興福院・手賀城跡
興福院は、手賀沼を見下ろす高台に建つ、真言宗豊山派の古刹です。大同年間(806~810)、同じ手賀地区の字寺台に開創されたと伝わり、現在ここは土取によって失われているものの、平安前期の古瓦が出土し、手賀廃寺と呼ばれています。手賀沼南岸を支配した豪族の私寺があったのではないでしょうか。本尊の十一面観音も弘法大師の作とも伝わる古仏です(秘仏)。
戦国時代の終わりころ、手賀に城を構えた原氏ともゆかりが深く、原胤親から多くの土地や什宝類が寄進されました。しかし、天正18年(1590)手賀城は落城、寺も焼失したため、江戸時代のはじめ、手賀城の二の丸であった現在の場所に移されたのです。
住所 柏市手賀712
ほかにも手賀に残る原氏の足跡
クランクの道 手賀地区に入り城址に近づくにつれて、真っすぐな道はなくなりクランク状の道ばかりになります。これは城へ直進して攻撃できない、防護策の一つで、戦国時代から近世の城下町に見られる人々の工夫です。
兵主八幡神社 手賀原氏が氏神として祀ったとされる兵主八幡神社八幡神社。「兵主」は中国では軍の指揮官を意味するとされ、源氏の氏神として多くの武家に信仰された「八幡」と共に、手賀原氏が祀るにはふさわしい神様です。鳥居の前に直角に伸びる200mの通りは「バンバ」と呼ばれ、かつては原氏専用の馬場として馬の調練や流鏑馬が行われ、一般牛馬の通行はできなかったそうです。
原氏の墓所 県道柏―印西線に沿った森の中に、「お墓場」と呼ばれる手賀原氏の墓所があります。垣の中には元和7年(1621)に立てられた原氏三代ゆかりの供養塔などが並び、当時を偲ばせています。入口左手には、明治期に活躍した社会事業家原胤昭夫妻が眠っています。胤昭は免囚保護に一生をささげた人物で、1万人を越す出獄者を助けました。背後には保護した刑余者50名余りが葬られ、名前が刻まれた平石が並んでいます。
harumien Okutega
去年5月に流山市から移転し、リニューアルオープンされました。
お花はもちろん、お洒落なガーデニング雑貨が並ぶ素敵なお店です。
住所 柏市手賀787−1
電話 090-4963-6824
営業時間 春季4月~6月/秋季10月~12月(10/6オープン予定) 10:00~17:00
定休日 不定休
Instagram https://www.instagram.com/p/BhnQVgxAmNn/
Facebook https://ja-jp.facebook.com/Harumien-Aota-Shop-262525217250584/
旧手賀教会堂
手賀城跡から東の向うと、干拓地を見下ろす小高い場所に旧手賀教会堂が見えてきます。萱葺屋根の建物で、十字窓がなければ教会堂とは気がつきません。明治12年、手賀村の名主を務めた湯浅長左衛門らは、ロシア正教から洗礼を受け、手賀教会が誕生します。その後、信者から提供された民家に改築をくわえたのがこの建物で、関東周辺では最古級の教会堂として、千葉県の文化財に指定されています。
柏市手賀666-2
見学についてはコチラをご覧ください。
布瀬地区の入口に並ぶ百庚申
県道柏・印西線の手賀東小学校へ行く道より布瀬地区にかけての沿道には、庚申塔が数多く並んで建っています。地元の人たちは「百庚申」と呼んでい大切にしています。
※「庚申塔」は、江戸時代に大流行した「庚申信仰」に基づいて建てられた石塔です。「庚申信仰」とは60日または60年ごとに巡ってくる庚申(かのえさる)の日に営まれる信仰行事です。元来は道教の三尸(さんし)の説に端を発しています。
宝寿院
35段の石段を上ると山門の奥に宝寿院の本堂が見えてきます。創建は中世末期の享禄元年(1528)と伝えられる真言宗豊山派の寺院で、本尊は阿弥陀如来です。かつて境内には、本堂をはじめ庫裡や不動堂などが立ち並んでいましたが、明治45年の火災によって、山門と本尊を残してことごとく焼失してしまいました。
住所 柏市布瀬1637−1
香取鳥見神社
干拓前は「手賀島」と呼ばれ、三方を水に囲まれた布瀬地区の中でも、もっとも東に突き出した森に鎮座するのが香取鳥見神社です。手賀沼は昔からカモやウナギ・コイなどの産地として知られ、携わる人々の心の拠り所として信仰を集めてきました。天保6年(1835)から同9年にかけて造営されたかつての社殿は、昇り竜・降り竜など細密な彫刻が施された見事な建造物で、普請にあたっては、水揚げされた獲物を扱う東国屋伊兵衛・鯉屋七兵衛・鮒屋新兵衛など、江戸の商人たちが多額の寄付をしています。昭和61年、不審火によって焼失してしまったのは本当に残念でした。
住所 柏市布瀬1377
鳥居をくぐり趣ある参道を進むと、右手に「手賀沼猟場碑」が建っています。昭和17年、手賀沼埋立てに伴う鳥猟組合の解散を記念した石で、鴨猟に関わってきた沿岸の人々の寄付によって建てられました。題額は鳥類の研究者として、「日本鳥学の父」と呼ばれた旧筑前福岡藩の黒田長禮(ながみち)侯爵、撰と書は黒田家の記録編纂係であった中島利一郎です。現在の社殿は、昭和63年に新しく建てられたもので、左手の記念碑は、先ほどの問屋商人たちの寄付石です。なお境内の下には布瀬貝塚が眠っており、悠久の歴史を伝えています。
浅間橋(千間堤跡)
香取鳥見神社下から、対岸の我孫子市新木に向かって一本の車道がのび、一帯は手賀沼を干拓した水田が広がっています。この道の中程に、手賀川と呼ばれる排水路が流れ、新しい浅間橋が架けられています。ここがかつての千間堤の跡です。享保12年(1727)、幕府は享保の改革の一環として手賀沼の干拓を計画、千間堤を築いて下流域の水田化を目論見ます。しかしこの計画は見事に失敗。14年に完成した千間堤は19年の洪水で破壊され、以後再び整備されることはありませんでした。
※手賀沼の干拓は、何度も試みられますが成功しませんでした。大正時代に手賀沼の一部を堤で囲い、機械排水することにより、少しづつ成果がみられるようになります。
手賀沼フィッシングセンター
淡水魚の養殖ニジマス釣り、バーベキューやキャンプなどがが楽しめ、週末は家族連れで賑わいます。リニューアルしたレストラン「numa café」も評判で、手賀沼の夕日を眺めながらのひと時は、ぜいたくな時間が流れます。
住所 柏市曙橋字若鮎1
TEL 04-7185-2424
HPはコチラをご覧ください。
numacafe
住所 柏市曙橋1
TEL 04-7157-0831
営業時間 平日 11:00~16:00 (L.O 15:30)
土日祝日 11:00~17:30 (L.O 17:00)
定休日 月曜・火曜 ※月火曜祝日の場合は翌日
HPはコチラをご覧ください。
参考資料
『沼南町史 史料集 金石文Ⅰ』
『沼南風土記』
『沼南風土記(二)』
『沼南町史 (一)
『柏市史 (原始古代中世 考古資料)』
柏の古文書や石像をず~っと調べて40年。
柏の歴史って素晴らしいので、ぜひお知らせしたいと思っています。