手賀沼のほとりに中世の佇まいを訪ねる 箕輪~岩井~鷲野谷【後半】

髙野
タカノ
博夫
ヒロオ
プロフィール詳細

柏といえば、昭和48年の駅前再開発を期に、沿線随一の商業都市として栄えた、比較的歴史の浅いまちという印象が強いのですが、実は貝塚や古墳も出土しており、昔から人々が暮らしていた痕跡が見られます。このコーナーでは、kamon・柏の歴史アンバサダーの髙野博夫さんのご案内で、柏の歴史や各所で寺社仏閣の解説を聞きながら、昔から続く人々の暮らしを感じることができるスポットやコースをご紹介します。 今回は、中世(武士が登場した鎌倉末期から戦国時代の終焉まで)手賀沼のほとり、箕輪・岩井・鷲野谷地区をめぐり、当時の人々がどのように暮らしていたのか感じられる歴史発見!の旅に出かけてみました。

<柏の歴史アンバサダー>髙野 博夫さん
<同行人>ほんま

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15:00

染谷家長屋門

【染谷家長屋門(鷲野谷)】
解説:染谷家は,天正11年(1583)、小金城主(松戸市)高城胤則から染谷二郎右衛門に出された官途状を有する旧家で,染谷氏は、高城氏の在郷被官であった。「高城胤則書状」は,主家が滅亡した後の在郷被官の状況をうかがい知る重要な資料となっている。江戸時代の染谷家は,万延元年(1860)関宿藩に上納金を納め、名字帯刀を許される等、地域の有力者として近世を生き抜く。染谷家住宅は当地方では珍しい曲屋形式で、屋根は寄棟造り桟瓦葺、弘化4年(1874)の建築である。長屋門は柏市の重要景観建造物指定第1号であり、これらは国指定登録文化財となっている。住所 鷲野谷24
髙野さんは以前からご当主と交流があり、幸運にもお庭を拝見させていただけました!(門の中をお片付け中、巻物が出てきました)
長屋門の中を見せていただきました!アトリエとして使用していたそうです。
染谷さんのお父様自画像
デパートの帽子の箱
染谷さん:この帽子は私の父が被っていたものです。USAとあります。舶来品ですね。
式台玄関:武家でも旗本以上の屋敷にしか認められなかった玄関。染谷家は名主であり、藩・天領地の末端組織的役割・機能をもっていたので式台のある玄関がみとめられていました。
ネコさん:にゃ~
母屋
お片付け中
最近まで使用されていたカマド
外にでると…仲良しです
お見送りありがとうございます
お屋敷の前の道は、中世からの古い道です。
戦国時代、人々が通った道だと思うとロマンを感じます。

染谷家住宅長屋門~ウッドマンズビレッジ

徒歩 13分

距離 1km

2
15:30

ちょっと一息

【ウッドマンズヴィレッジ(鷲野谷】
手賀沼を眺めながら、ゆったりと過ごせるcafeです。地元の食材を使った食事が楽しめます。


住所 柏市鷲野谷137
電話 080-3158-0137
定休日 火・水・祝前日 
くわしくはHPをごらんください

金・土・日・祝日 営業です
特製のケーキセット 1,200円(税込) クレームブリュレとカフェラテ
イチゴのショートケーキとコーヒー
チーズケーキと紅茶
パフェやBBQも人気です。

ウッドマンズビレッジ~香取神社

徒歩 9分

距離 750m

さて、香取神社へ向かいましょう!
竹林を抜けていきます
【香取神社(鷲野谷)】
解説:経津主命を祭神として、もと鷲野谷・岩井両村の境に位置していたが、元文3年(1738)現在地に鎮座。石段は安永3年(1774)鷲野谷村惣氏子中の寄進よるもので、境内には流山の石工行徳宥孫による明神鳥居(天明8年・1788)や富士山信仰の仙元大菩薩(天保3年・1832)もみられる。大正12年(1923)ここを訪れた明治の文人,・大町桂月は「…(略)…東京よりわずか十里で、このような仙境があるものかと驚喜しました。…(略)…香取神社の彫刻は精妙で驚かされました。柱に昇龍と降龍が彫られているのは私の見た限りでは、甲州の金櫻神社と陸奥の岩木神社と鷲野谷だけです…(略)…」(訳文)と称賛している。住所 鷲野谷76

髙野さん:この柱の龍の彫刻は他に類をみないほど立派なものです。色々な神社に行かれた時に比べてみてください。龍の彫りものは、他では類を見ない立派なものです。

香取神社~龍光院・将門神社

徒歩 17分

距離 1.4km

3
16:30

岩井の将門信仰

【将門神社(岩井)】
解説:平将門を祭神とする神社で,背面には放れ駒の彫刻がみられる。神殿の棟札類や,隣接する龍光院の地蔵尊縁起(安永三年・1774)によって,江戸時代の中頃,岩井村で将門信仰が盛んになったことが伺え,現在でも成田山詣はしない。如蔵尼伝説は「今昔物語」・「元亨釈書」などにみられ,将門の三女が,父の菩提を弔っていたが,病によって命を落とすものの,地蔵菩薩の加護によって蘇るというもの。
お参りさせていただきます。
この台座は江戸時代前期のものです。
本堂背面の放れ馬の彫刻

将門神社~龍光院

将門神社の隣

【龍光院(岩井)】
住所 岩井424電話 04-7192-4194
龍光院本堂
将門グッズ販売中です。
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護摩木
地蔵堂
柏市観光協会が設置している、柏のむかしばなしの紹介ポール
QRコードを読みこむと、この地蔵堂ゆかりの、むかしばなしを聞くことができます。
地獄から戻ったお姫様は、将門の三女のことです。

将門神社~手賀沼ふれあい緑道

徒歩 6分

距離 450m

4
17:00

手賀沼ふれあい緑道へ

岩井から手賀沼へ。
髙野さん:この手賀沼沿いの道を渡るときは、くれぐれも注意してくださいね。
道を渡り
手賀沼ふれあい緑道へ
東屋もあります
【中秋丸渡船場跡】
解説:手賀沼に暮らす人々にとって、日常の生活で舟は大切なものであったが、荒天時には危険で、遭難事故も数多く発生している。昭和19年の女子教員殉難事故では乗船者44名のうち18名の犠牲者を出す大惨事となった。安全で早くという,要望によって昭和28年11月に就航した県営渡船は,30人乗りのモーター船で、荷物や自転車も乗せることができた。当時の風早村箕輪と我孫子町の間を連絡するのもで、名前を『中秋丸』と命名された。就航に尽力された、当時の中台正夫風早村長と秋谷好治我孫子町長の名前からつけられたもの。
 その後、連絡船による輸送の限界から架橋を望む声が高まり、念願の沼への架橋が決定し、39年7月に手賀大橋の開通式を迎えた。
【手賀沼】
解説:中世末まで,利根川下流から霞ヶ浦一帯は香取海(かとりのうみ)がひろがり,手賀沼はその入江の一つで,手下水海(てがのみずうみ)と呼ばれていた。やがて水域が後退し,上流からの土砂によって入口が埋められ沼となっていった。明治維新後,新政府は手賀沼・印旛沼や小金牧など,旧幕府所有の荒蕪地を一般に払下げ,民間資金による開発を目論むが,長年,水魔との戦いの中,開墾を進めてきた地元農民たちは,これまでの経緯を記載した絵図や魚鳥猟の水揚げ調書を一斉に提出,既得権を主張したため,事業は中止となった。大正9年(1920)には国営手賀沼干拓計画が発表され,景観保護の始まりとなった。その後も手賀沼遊覧急行電鉄計画による鉄道敷設免許申請(昭和2年7月)や,手賀沼の景観を出来るだけ守り,交通・遊覧・住居の関連施設を設置する「手賀沼保勝会」の活動。オリンピックとディズニーランド誘致などが計画されたが,実現には至らなかった。
手賀大橋

今回、箕輪~岩井~鷲野谷とめぐって、古墳時代の貝塚や谷津の地形、庚申塔や寺社仏閣の多さ、そして長屋門など。歴史を感じる風景がこんなにも身近にある事に驚きました。柏のイメージが変わりました。農家さんにある蔵や生垣、美しいお庭など保っていくのは大変だと思いますが、これからも残ってほしいと思いました。cafeタイムを入れて4時間ぐらい、歩いたのは15,000歩以上でした~!

道の駅しょうなんで電動自転車を借りるのもアリですね(*'▽')✨
中世の時代から明治頃まで、手賀沼の南岸に人々が暮らしていた風景を感じていただけたらと思います。
では「柏の歴史発見!」次回をお楽しみに~!
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Goal !

この記事を書いた人

髙野
タカノ
博夫
ヒロオ
プロフィール

柏の古文書や石像をず~っと調べて40年。
柏の歴史って素晴らしいので、ぜひお知らせしたいと思っています。