1)はじめに・鷲野谷村と医王寺
水利に恵まれた手賀沼の南岸では、早くから人々の暮らしが営まれ、多くの村々がつくられました。中世、この辺りを支配した相馬氏の資料を見ると、こうした村がいくつも登場しますが、鷲野谷村もその代表格です。沼南岸のほぼ中央部、「染井入り落とし」の左岸という要地に位置するこの村は、中世末期には城郭が作られ、戦闘も行われました。鷲野谷の集落は、他の古村がそうであるように、強風を避け、生活用水を得やすくするため、台地の少し低い場所に形成されています。この村の中央に立つのが、柏市を代表する古刹寺院の一つ、医王寺です。
2)医王寺について
1. 歴史~経誉上人の墓碑より~
寛正のはじめ(室町時代中期)、鷲野谷村を訪ねた一人の僧侶がありました。彼は「行蓮社経誉愚底正運公(ぎょうれんしゃ・きょうよぐてい・しょううんこう)」(以後、経誉上人と省略)という浄土宗の高僧で、芝の大本山増上寺三世音誉聖観の門人でした。愚底上人は諸国を布教行脚するうち、ここに立ち寄ったのです。村には大樹が茂るうっそうとした森があり、不思議な霊験を感じた上人は村の古老に話を聞きました。「この山には、むかし医王寺という古寺があり、恵心僧都御作の薬師如来がまつられていたがすでに廃絶し、わずかに残る小堂に安置している、とてもありがたい仏様である」。これを聞いた上人は、村人たちと寺の再興を決意。薬師如来をまつる薬師堂を建設し、これとは別に自らが勧請(神仏の分霊を請(しょう)じ、迎えること)した阿弥陀如来を本尊として「東光山安楽院医王寺」という浄土宗寺院としたのです。
この頃、近傍の根木内(現在の松戸市)では、鷲野谷村の領主高城氏(千葉氏の支族、)が急速に力を付け、人々が集まってきていました。上人は村の土豪で高城氏の家臣であった染谷氏を伴い、布教のため小金に向かいました。ここで創建したのが東漸寺です。江戸時代には浄土宗関東十八檀林の一つとして大いに隆昌しました。その後、上人は隠居所として南柏新宿に行念寺を、更に村人の請いに応えて、二ッ木に常行院の2ヶ寺も建てられました。最晩年は再び鷲野谷に戻り、念仏三昧のなか、静かに没していったと伝えられています。
東葛印旛大師講の取材記事はこちら
ドイツ人留学生マルテの『つながるまち歩き』1:東葛印旛大師
2. ゆかりの人々
弁栄上人「大正の法然上人」(1859~1920)
明治から大正にかけて活躍した浄土宗の高僧。鷲野谷の篤農家、山﨑家に生まれ、21歳の時に医王寺で得度。増上寺(東京)や筑波山、医王寺薬師堂などでの厳しい修行の後、全国各地で勢力的に布教活動を行います。やがて「光明王(阿弥陀仏)を本尊とし、光明名号(南無阿弥陀仏)を称え、光明中に生活する(『光明の生活』)という「光明主義」を提唱し、宗派の枠を超えて多くの信奉者の帰依を受けました。また、光明学園などの学校も設立しました。「多変数複素関数論」で世界を驚かせた天才的な数学者、岡潔博士は弁栄上人の生涯を見て、「お釈迦さまの再来」と評したほどです。
2020年には、没後百年顕彰事業として「弁栄展 -柏が生んだ聖-」が柏市郷土資料展示室(柏市役所沼南支所隣)で開催されました。
そのときの様子を、地元沼南地区の「すぎの梨園」杉野さんが柏マニア欄で記事としてまとめています。
柏マニア:もうひとつの柏3『 ふるさとは いずこと問わば 下ふさの 手賀の浦べの わしの谷の里 』
石川倉次「日本点字の父」(1859~1944)
医王寺に開校した鷲野谷学校に赴任した石川倉次。教育に情熱を燃やす青年教師は、村人たちに数々の提案をしますが、貧しい人々にはこれに応える余裕はありませんでした。失意のうちに鷲野谷を離れた倉次に、訓盲唖院(東京)の小西信八が声をかけ、日本点字の研究に没頭することになります。明治23年(1890)ついにこれを完成。彼が考案した6点点字は視覚に障害を持つ人々の希望の星となったのです。倉次が一年間、教鞭をとった医王寺の薬師如来は眼病に霊験があることで有名でした。熱心に平癒を願う人々の姿は、彼の目に強く印象付けられたに違いありません。
3. 医王寺のここがすごい!
本尊阿弥陀如来をまつる本堂の東側に建つのが薬師堂。古来より病気平癒の効験によって人々の信仰を集めました。本尊薬師三尊は12年に一度、寅年だけに開帳される秘仏です。これは心身の病を除いて仏道に導くことを中心に誓われた「十二大願」を成就し、薬師如来が、民衆を救うために姿を現すことを儀式としたものです。来年2022年はちょうど寅年、開帳の年にあたります。※コロナ感染症の感染状況によっては、予告なく中止される場合があります。
医王寺の古き仏たち
昭和48年の修理の際から、医王寺の薬師如来像には「長禄2年(1458)」の年記紀と「大仏師春慶」との体内墨書銘が確認されていましたが、これは修理銘と考えられます。薬師三尊をはじめ不動明王、毘沙門天の5体の仏像は平安時代末期から鎌倉時代初期の作と鑑定されたからです。元々の薬師像については寺伝にも「恵心僧都の刻める所也(『佛法山歴代事略』)」とあり、時代もおおよそ符号します。
その後、寺の荒廃によって傷んでいた薬師像の修復を手掛けた「大仏師春慶」は、奈良の椿井(つばい)仏師の中でも最も著名な「舜覚坊春慶」ではないかと思われると現住職は語っています。
春慶作と確認されている最古の造像は、法隆寺宝珠院の五髻文殊菩薩像(長禄3年の銘あり)ですが、医王寺の薬師像の体内銘は「長録2年」ですから、修復とはいえ、その前年に手掛けたということになります。修復の時点から数えても、今から560年余りが経つ古仏です。室町期の作と鑑定された、本堂の阿弥陀三尊も含め、こうした古仏たちはこの寺の長い歴史を静かに見つめてきたのです。※本尊の阿弥陀三尊以外は秘仏ですので、普段は拝観できません。
薬師堂の左手から奥に進むと…。経誉愚底上人の墓塔があります。
医王寺のパワースポット
医王寺を開いた経誉愚底上人の墓石の前には、たくさんの錐が奉納されています。本堂内の愚底上人像の足元にも同じように錐が山のように奉納されています。これは、耳に病のある人が寺から授けられた錐を用いて祈願することで耳病を治して頂くという信仰が伝わっていたことに起因しています。お薬師さまの効験で耳の病気を治していただいた人は、新たな錐を1本添え、2本の錐を御礼奉納することが長く続けられていた証となるものです。錐は塞がった所に穴を開け、通りを良くすることから、耳の通りを良くする法具として用いられたものでしょう。
これと同じ錐奉納の風習が、奈良の法隆寺西円堂(本尊は薬師如来)に今も伝わっています。そこに隣接する宝珠院には医王寺の薬師像修復を担った大仏師春慶が造像した五髻文殊菩薩像(非公開)が収められています。恐らく愚底上人が、医王寺の薬師如来像修復を依頼するために奈良を訪ねた際、文殊菩薩像製作中の春慶から、錐による病気平癒の方法も教えられ、この祈願法を法隆寺から鷲野谷に持ち帰られたものと考えられます。愚底上人は今でも地元で「錐神さま」と呼ばれています。錐を用いて耳の病を治してくれる神のような人と、村の人々の目には映っていたに違いありません。愚底上人の墓所は、眼病や耳病に効験のあるパワースポットとなっています。
4.医王寺クイズ(薬師堂に掲げられている絵馬から)
この絵は何を願って奉納されものでしょうか?
鎧武者と鬼が力比べをしています。二匹の鬼は必死の形相で弓を引っぱりますが、侍は片手で扇を開き涼しげな表情を浮かべています。この絵馬は、何を祈願して奉納されたものでしょうか?
そのほかこんな絵馬も
「神功皇后と竹内宿祢」竹内宿祢が抱いている赤ん坊が後の応神天皇。わが子の健やかな成長を願って、奉納されたものです。
「ちょっとおまけ」
5.医王寺詳細
・御朱印 写真参照
・宗派、名称 浄土宗 東光山医王寺安楽院
・本尊 阿弥陀如来
・住所 柏市鷲野谷510-1
・電話 04-7191-2259
・交通アクセス 我孫子駅から坂東バス「スポーツ広場前」下車、徒歩16分
(医王寺では、現在、コロナ感染症平癒の祈りが静かに行われています)
参考文献
椎名宏雄「経譽愚底の伝記と医王寺」『沼南町史研究第3号』
(行蓮社経誉上人墓塔銘)『柏市史(沼南町史史料集金石文Ⅲ)』
(クイズの答え) 疱瘡除け・疫病退散の絵馬です。2匹の鬼は、当時最も恐ろしかった疱瘡神を擬人化したものです。疱瘡は天然痘とも称され、ウィルスによる伝染性疾患です。伝染力がきわめて強く、致死率も高いのが特徴で、日本でもたびたび大流行したことが多くの文献に記録されています。武者は鎮西八郎為朝という、源平合戦で活躍した源氏の武将です。強弓で知られた豪傑で、保元の戦に敗れ島流しに処せられますが、ここで鬼退治をしたという伝説に基づきます。強弓の為朝にあやかり、彼のような超人的な英雄であれば、恐ろしい疱瘡神をも打ち払ってくれる、と疫病退散を祈願したものでしょう(種痘法の開発により、昭和54年(1979)WHOは絶滅を宣言し、人類が克服したウィルス感染症となりました)。
鷲野谷の医王寺さんについて、柏市文化課の展示「弁栄展」を拝見させていただいたときに知りました。今回、医王寺と薬師堂へお伺いし、しかもご住職や髙野さんのご説明をお伺いさせていただいて、より身近に感じることができました。室町の昔から、鷲野谷に人々の暮らしがあり信仰があったのだと思うと、感慨深いです!
今日はありがとうございました!
医王寺御朱印
薬師堂御朱印