2021-08-19
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第2回目の「こだわり・柏の社寺」では多くの文人墨客が訪れ、いまなお柏市民に親しまれている「布施弁天」と「あけぼの山」の歴史を訪ねます。
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ハラデテル・イナバです!(ハラデテルとは、腹が出ているからです✨!)
今日も元気です!
どうぞよろしくお願いいたします!
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よろしくお願いいたします!
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1) はじめに・柏市を代表する景勝地・亀の甲山
江戸時代から布施弁天・あけぼの山・手賀沼は柏の三大観光地として知られていました。日本の代表的な地誌として知られる赤松宗旦の『利根川図志』(安政5年・1858)にも「田中に孤山あり。弁才天を祀る。(略)紅龍山松光山東海寺という。(略)ここは関東三弁天の一つにして、参詣人群集し、戸頭の渡船を望み、曙山の桜楓を眺めて、頗る勝景と称するに足れり…」とその賑わいが記述されています。ちなみに関東三弁天とは「相模の江ノ島弁天」と「浅草寺弁天山(浅草弁天堂)」、そして「布施弁天」です。今回の第二回「こだわり・柏の社寺」では、多くの文人墨客が訪れ、いまなお柏市民に親しまれている、布施弁天とあけぼの山の歴史をたずねます。
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諸説あり。です。
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紅龍山布施弁天東海寺 HP はこちら
住所 千葉県柏市布施1738
TEL 04-7131-7317
参拝時間 午前6:00~午後6:00 午後6時になりますと本堂のシャッターが自動で閉まります。(それ以外の時間でもご自由に参拝していただけます)
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2)-1 布施弁天東海寺の歩み
御本尊「弁才天」
このお寺のご本尊は、弘法大師作と伝えられる弁才天ですが、秘仏のため、前立ちの尊像を拝観することになります。弁才天はインドの民間信仰の神様で、川の精として尊崇されてきました。さらさらと美しい流水の音から、妙音天などと漢訳され歌舞音曲の神ともなりましたが、もともとは農業神です。ほとんどが水に囲まれた場所に祀られています。
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2)-2 ロマンに満ちた紅龍伝説
「大同2年(807)7月7日の朝、紅龍が湖上に現れ、土塊を捧げて島を作った。これにより天地震動し、夜毎に光明が放たれた。ある夜、里人に夢の中に天女があらわれ、但馬国朝来郡筒江郷(たじまのくにあさごぐんつつえごう・現兵庫県朝来市)より来たことを告げる。目を覚ました里人が光明を訪ねて、窟(いわや)に入ったところ、長さ3寸あまりの尊像があったので、早速藁ぶきの小祠(ほこら)を建て安置した。そのころ、弘法大師の巡錫があり、これを聞いて尊像を見たところ、先に自ら筒江郷で刻んだ像であったという。そこで寺をつくって紅龍山と命名し、里を天女の利益にちなんで布施と名付けた。さらに帰洛した大師は嵯峨天皇に奏聞し、田園を寄付して伽藍を造立した…。
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ご住職:紅龍と弘法大師が登場する開創伝説ですが、面白いことに弁天様が飛び出したという兵庫県朝来市には、中が空の小さな堂宇が祀られていて、留守弁天と呼ばれ、今でも地元の信仰を集めているそうです。
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ぜひご覧ください!
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2)-3 古文書に見る布施弁天の開創
布施村の名主役を務め、河岸問屋でもあった後藤家には、地域の歴史を記録した貴重な資料が、数多く残されています(現在は柏市が管理)。この中の「布施弁天来歴書抜」に開創の由来が記されています。要約すると、「延宝2年(1675)、旗本天野左兵衛の知行所であった頃。布施村に人里離れた地頭林の小山があり、周囲を水に囲まれ亀が浮かんでいるような形から亀甲山と名付けられた。景勝地であったので弁才天を祀るべきと考え、後藤又右衛門が願主となり、里人と共に藁にて小社を造り弁才天を祀った。別当東海寺の祐長と心を合せ、弁才天信仰を高めていった。」というものです。やがて又右衛門は、江戸の富豪にして篤信家であった古屋与右衛門と親しくなり、二人で力を合せ仮御堂の建設に尽力し、貞享元年(1684)4月堂宇は完成します。元禄11年(1689)知行替によって、布施村の支配は旗本天野氏から本多伯耆守となりますが、布施弁天への信仰と保護は変わりませんでした。
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2)-4 東海寺の引越しから布施弁天の隆昌へ
もともと、亀の甲山に祀られた弁才天と東海寺は別個の存在で、かつては布施村の古屋地先にあり、香取神社の別当を務める寺院でした。ここには現在でも、東海寺の歴代住職の墓塔が並んでいます。(布施道コースで紹介させていただきました)やがて領主の庇護もあって弁才天の評判が高まってくると、村人たちは亀の甲山への引越しを願いでました。宝永2年(1705)、東海寺は弁才天と一体となり、繁栄の道をたどることになるのです。『柏市史 近世編』によれば布施弁天が最も繁栄した時期は、本堂が建立された享保元年(1716)頃から天明7年(1787)頃までとされています。理由として領主本多氏の庇護と東海寺、後藤、古屋両家の積極的な布教活動が大きかったと指摘しています。これに加えて最近明らかにされてきた「あけぼの山」を中心とする地域振興策があったのです。
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建立後も、布施弁天の観光スポット化プロジェクトは進んでいきます。
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3)布施弁天のここがすごい
~「あけぼの山」に桜を植えて、人を呼び込む観光プロジェクト~
明治44年に刊行された『富勢村誌』によれば、人々の俚諺(はやりうた)に「成田不動も布施弁天の半ばに昌(さかん)なればよいが、」と唄われ、古江戸名勝図会にも載せられるほどにかつての布施弁天は栄えていました。これほどまでに布施弁天やあけぼの山に人々が群集したのは、住職や地元の後藤家を中心とした、サクラの植林によるあけぼの山観光プロジェクトが功を奏したからです。
延享2年(1746)8月、東海寺は曙山にサクラを植えるための土地の取得を、船戸役所に願い出ました。「先々代の住職秀調は桜山の計画を練っていたものの、生前は果たせなかった。3000坪の地代金は、積立金に加えて寄付金も集まり、資金を確保できたので許可してもらいたい」という内容です(後藤家文書)。
サクラと言えば吉野山や醍醐寺が有名ですが、これらは貴族や大名が楽しむものでした。将軍家のお膝元である江戸の上野や飛鳥山などは別として、地方では庶民の花見文化は普及していなかった頃です。七里の渡しや布施道を利用する大勢の旅人を、サクラによって呼び込もうとする地域おこしは、当時としてはユニークで先進的な試みでした。サクラはやがて枯れますので、再整備が必要となります。
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後藤家でも俳諧師を招いて句会を催すなど、積極的に宣伝に努めました。なかでも俳人白井鳥酔とは親交が深く、たびたび同家に招いたようです。屋敷内の桜の大木の根元の石碑には、「後藤休語老人との友情は隠れもなく、まるで葉と花のようだ。」と刻まれています。また、扁額「曙山記」には「北山の佳景四時にしれりといえども、只花なき事を恥じるとて、一代の山主秀調阿闍梨桜一色を添えて、自ら曙山と呼ぶこれ也…」と由緒を述べ 「あけぼのの ぬしになりけり 山桜」と詠んでいます。
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ここで、布施の地を訪れた人々をご紹介します。
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4)布施弁天を訪れた人々
本多正意(ほんだ まさおき)
田中本多家第10代藩主、剣術家小野成誠や儒学者石井縄斎を招くなど、文武両道を奨励する一方、神仏を深く信仰する殿様でした。文政元年(1818)に布施弁天に参詣し、同6年には紋付き幕・提灯を寄進しています。
宝井其角
江戸時代中期の俳人で、蕉門第一と評され、本堂と庫裏の間の中庭に「玉椿 昼と見えてや 布施籠り」の句碑が建っています。
小林一茶
江戸時代後期の俳人。一茶には馬橋の大川立砂、流山の秋元双樹、布川(茨城県利根町)の古田月船、守谷の鶴老などの友人がいました。豪商などいずれも地域の有力者で、ここを拠点に句会を開くなど俳諧活動を続けていたのです。流山から守谷に向かうには七里の渡しを利用するので、布施弁天にも参詣しました。文化9年(1812)の句文集『株番』に次ぎのような記述があります。
「布施東海寺に詣でけるに、鶏どもの迹をしたひぬることの不憫さに、門前の家によりて、米一合ばかり買ひて、菫蒲公英のほとりにちらしけるを、やがて仲間喧嘩をいく所にも始たり。其うち木末より鳩雀ばらばらとび来りて、心しづかにくらひつつ、鶏の来る時、小ばやくもとの梢へ逃げさりぬ、鳩雀は蹴合の長かれかしとや思うらん。士農工商其外さまざまの稼ひ、みなかくの通り
「米蒔くも 罪ぞよ鶏が け合ぞよ 一茶」
士農工商といろいろあるが、仲間喧嘩をしていたら、良いところはみんな他に取られてしまう、と言っているのです。あけぼの山には「蹴合塚」の俳文碑が建てられています。
白井鳥酔
江戸時代中期の俳人。本名信興。上総地引村(現長南町)の代官の家に生まれたものの剃髪して出府、俳諧に専念しました。芭蕉の旧跡を歴遊して偉業を顕彰するなど、諸国を巡っています。布施村の名主後藤善右衛門とは特に親交が篤く、句会をとおして桜山の宣伝にも貢献しています。
赤松宗旦
本名義知。布川河岸の医師。幕末に書かれた代表的な地誌『利根川図志』の著者。取材帳である『笏記』によれば、安政元年(1854)12月10日、絵師玉峩を伴い布施弁天を訪れています。「十日 青山丈右衛門より朝四ッ時出立、布施弁天参詣、別当東海寺へ立寄、昼食、一跡先生の書し山内の絵面額あり、玉峩写之、七ッ過なれば同所常陸屋へ泊る、(略)東海寺は真言宗常州大塚護持院末、例年八月朔日風祭角力あり、古来より巳ノ年毎に三月(廿日之間)開帳有。」堂内の絵馬や寺宝の蟠龍石などを取材しています。
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大鳥圭介
旧幕府の陸軍奉行を務めた人物です。慶応4年(1868)徳川幕府の崩壊によって、江戸城が明け渡されましたが、官軍への徹底抗戦を主張する大鳥圭介たち1,600名は北を目指し、途中で布施弁天や付近の旅籠、曙山などに駐屯しました。橋本旅館ではこの時、元新選組の土方歳三が泊り、桜山が多いに荒廃したと伝えられています。
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大町桂月
本名芳衛。日本各地を旅し、紀行文や随筆で紹介、独特の美文表現で人気を博した明治の文人。東京近郊の名所を訪ねた『東京遊行記』(明治39年)で、「丘より数十間のところは、桜山とて桜多く、楓も多く、その上にのぼれば、眺望もよし。布施弁天は一遊して可なる処なり。」と推奨しています。
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杉村楚人冠
本名広太郎。優れた企画力で日本ジャーナリズムの近代化に貢献した、朝日新聞の名物記者。楚人冠の日記によれば昭和6年7年11年の三度にわたりサクラの時期に布施弁天を訪れています。昭和7年4月17日の頁には「桜山より弁天にまわり、花を賞しつつ山を下り、ここより運河行きの船便あるを知り…」と記しています(我孫子市杉村楚人冠記念館の方にお話をお伺いいたしました)。
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布施弁天
宗派 真言宗豊山派
名称 紅龍山東海寺
本尊 弁才天
住所 柏市布施1738
TEL 04-7131-7317
アクセス 我孫子駅から坂東バス「スポーツ広場前」下車、徒歩16分
参考文献野田勝二・成澤綾 「柏市あけぼの山公園さくら山の歴史」(2020年度日本造園学会全国大会発表資料)
川名登『河川水運の文化史』『柏市史 近世編』『柏市史 資料編 五』『柏市史 (沼南町史 近代史料)』
布施弁天御朱印
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1200年の歴史を誇る、関東三大弁天に名を連ねたお寺が柏にあるとは!驚きです!
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「柏の歴史発見!」また次回をお楽しみに~!