柏歴史発見!こだわり・柏の寺社(5)【福満寺】

柏の歴史アンバサダー髙野です。
第5回「こだわり・柏の社寺」では、歴史的景観の中に息づく福満寺を紹介しましょう。
こんにちは!
ハラデテル・イナバです!福満寺さんは、柏駅東口1番乗り場~大井バス停で下車、徒歩10分の場所にあります。
1.はじめに~将門伝説に包まれた大井郷の古刹~ 
 平安時代の承平年間(932~38)に成立した辞書『倭名類聚抄』には、この頃の相馬郡には6つの郷(村)があり、その筆頭に書かれているのが大井郷です。大井という地名は『正倉院文書』『将門記』『相馬文書』『本土寺過去帳』『検地帳』など、古代中世から近世にいたるまで、各時代の史料に切れ目なく登場する柏市でも屈指の古村です。村には福満寺と妙照寺という寺があり、共に長い歴史を刻んできました。中でも福満寺は平安初期の創建と伝えられ「将門伝説」が残る古刹です。
阿弥陀如来を奉る本堂
平安初期の創建とは!1200年前からあるのですね!
大井の地には、昔から人々が住んでいたのです。では、まず【福満寺】の歴史からご案内しましょう!
2.福満寺について【歴史】
 福満寺は今から1200年前の桓武天皇の代に、尊慶上人によって創建されたと伝わる古刹で寺に残された旧薬師堂棟札の写しには「承和11年(844)11月8日 南相馬ノ庄大井郷別当福満寺」とあります。
 長い年月の中で造立された中世石造物も多く、板碑は延慶3年(1310)を最古に60枚以上に上り柏市域では群を抜いています。境外地に祀られている「車の前五輪塔」や「阿弥陀様板碑」も特筆すべき石仏で、この地域の歴史を跡付ける資料となっています。火災にも多く見舞われたようで、戦国時代に兵火を受けたのち、江戸時代の延宝年間(1673~81)と享保年間(1716~36)には、伽藍の大部分が灰燼に帰し多くの資料を失いました。現在、近世の建物で残っているのは鐘楼堂と観音堂だけなので、こうした石造物は貴重です。
展示されている板碑
 手賀沼から三反田谷津と呼ばれる谷をさかのぼると、三方を木々に囲まれ静寂に包まれた福満寺の境内が広がります。周囲の森からの湧水も多く、かつて村人たちはこの水を利用して種籾を浸しました。
緑に囲まれた福満寺

湧水があるところには、昔から人々が生活していたのですね。
では、次は境内をご案内していきます。
2)境内散歩【鐘楼堂】
福満寺のシンボル鐘楼堂
 香取神社の鳥居の左隣に建つ、山門を兼ねた鐘楼堂が福満寺の入口です。享保14年(1729)、恵深(けいじん)和尚は寺に鐘楼がないことを嘆き「秘仏聖観音」を背にして房総を巡錫し、浄財を募ったと伝えられるお堂です。高欄が廻らされた2階部分に梵鐘が吊るされ、毎年暮れには地区の人々によって、除夜の鐘が撞かれ、大井地区の風物詩となってきました(昨年はコロナ禍で中止)。「手賀沼八景」の中で「大井の晩鐘」と詠われ、福満寺のシンボルとなっている鐘楼堂です。
自然豊かな大井の地に、除夜の鐘が響くのを聞いてみたいです。幻想的でしょうね~。

鐘楼堂から境内へ入ると、住宅街のように小さな祠がたくさん並んでいますね。
こちらは、四国八十八ヶ所霊場を再現しています。昔は誰でも巡礼できるわけではなかったので、こちらの祠をお参りして祈願したのでしょうね。
【准准四国八十八ケ所霊場】 
四国霊場を写した堂宇が建ち並ぶ(鐘楼堂側から見た景色)
 鐘楼堂から本堂に下る途中、左手にたくさんのお堂が並んでいて壮観です。四国霊場八十八カ所の写しで、明治11年徳純和尚が檀家に呼びかけて完成させました。それぞれのお堂の下には四国霊場の砂が納められています。
境内から見たお堂の数々
境内には、水戸家に仕え隠密として活動した「日暮玄蕃」の墓もあります。
【日暮玄蕃の墓】
日暮玄蕃の墓
 観音堂左手の石段下に建つのが、日暮玄蕃の墓塔です。日暮家は中世小金城主高城氏の遺臣で、日蓮宗本土寺の檀家でしたが、住僧日述が不授布施派を立てたとき、これに入信してしまいます。不授不施派は、キリスト教と共に幕府が弾圧した宗派で、見つかれば厳しく処罰されました。福満寺の豪養は玄蕃を匿い、天台宗に改宗させることで彼を救ったのです。その後玄蕃は水戸家に仕え、隠密として活動したと伝わっています。

【観音堂と聖観音】
 かつて本堂として使われていた観音堂は、江戸時代初期の作とされ、三方に回廊と高欄が廻り、天井には恵深和尚の龍が描かれています。和尚は上野寛永寺で修行していたころ、狩野派の絵を学んだとされ、後に寛永寺や日光輪王寺の住職となった高僧です。
お堂に収められているのは「聖観世音菩薩」です。幾度もの火難をのがれてきたことから「火防(ひぶせ)観音」と呼ばれ、住職一代に一回のみ開帳を許される秘仏です。調査がなされていないので詳細は不明ですが、中世以前の作とされ、将門伝説に登場する坂巻若狭守の守り本尊と伝えられています。
観音堂
聖観世音菩薩の姿絵

ご住職にお話しをお伺いする髙野さん。
福満寺のご住職 伊原慧純氏
【弁天池】
 
湧水が豊富な境内を象徴するように、本堂の左手には美しい池が配置されています。赤い橋が架けられ、弁財天が祀られていますが、天保11年(1840)、上野寛永寺の不忍池弁財天を勧請したものです。弁才天は七福神の中で唯一の女性で、水に縁のある場所に祀られるのが一般的で、不忍池弁財天は琵琶湖の竹生島から、寛永寺を建立した天海僧正が勧請したものです。
 近年、橋のたもとに「かしわ七福神」のうちの布袋尊が祀られました。
弁天堂を祀る池
かしわ七福神のスタンプは、寺務所に行くと押していただけます。お正月にめぐってみたいですね。

ここから、平将門伝説にまつわるスポットを、いくつかご案内します。
【将門伝説(1)第三婦人「車の前」】 
 平将門には車御前という美しい側室がいましたが、天慶の乱で将門が敗死した時、お腹には赤子を宿していました。彼女の身にも危険が迫ったとき、叔父の中村才治夫婦は実家のある相馬郡大井の知人宅に匿い、無事に男の子を出産します。若松と名付け、自らは出家して、夫の護持した妙見さまを祀るお堂を建て静かにその菩提を弔いました。
鏡の井戸
寺務所の裏手から鏡井戸へ行けます。
整えられた竹林を超えると、鏡の井戸へ行くことができます。
将門の第3夫人といわれている「車の前」は、将門を待って、朝夕に姿を整えてていたのでしょうか?
【将門伝説(2)「将門山」】
 
福満寺の東畑の中に木々が茂った小さな植え込みがあり、地元ではこれを「将門山」と呼んでいます。ここから望む手賀沼は絶景で、琵琶湖になぞらえてここに王城を築いた、と伝えられています。
畑の中は入れません
お堂
畑の中は立ち入り禁止です
3)境外の文化財【車の前五輪塔】と【妙見社】 
 福満寺の南側の台地上、200mほど離れた畑の中に、シイなどがこんもり繁った森が見えます。かつて「妙見堂」が祀られていたことから地元では妙見様と呼ばれ、人々から信仰を集めてきました。
 ここに「車の前五輪塔」という、手賀沼周辺で最大最古の五輪塔が立てられています。五輪塔は、地・水・火・風・空の五大元素から形成されているとする、仏教の宇宙観から発して造立されたものです。
 「車の前五輪塔」は、安山岩製で高さ160cm笠石の一部に欠損がみられるものの、各輪に五大元素を表わす種子が刻まれ、造られたのは室町初期と推定されます。妙見菩薩は国土を擁護し敵を退ける仏として、多くの武家に信仰されましたが、特に相馬氏が崇敬したことは有名で、ゆかりの地にはほぼ例外なく祀られました。
 この五輪塔も、当時この地方を支配していた相馬氏の墓と考えられ、濃密に残る将門伝説も彼らによってもたらされたものでしょうか。
 東側の小さな池は「鐘ノ井」と呼ばれていますが、妙見堂にあった鐘楼堂が大風で倒壊し、梵鐘が井戸の落ちてしまいました。水は鉄の赤錆びた色となり、この後清むことはなくなったのです。

相馬氏の墓と考えられる五輪塔
近年建てられた妙見社
福満寺の境外地には、ほかにも、考古学的に貴重なものがあります。
阿弥陀様板碑【阿弥陀堂】
 福満寺の境外地である阿弥陀堂には、初発期の下総板碑の典型といえる優品が祀られています。高さ186cm、幅48cm、厚さは最大で11cmあり、阿弥陀三尊の種子が刻まれています。平成元年、旧沼南町が掘り起こして調査を実施しましたが、造立年月日・造立者・造立趣旨などは刻まれていませんでした。純粋に信仰目的で造立したもので、時期は山形の頭頂角・横二条線・天蓋瓔珞・梵字の涅槃点などの形から、鎌倉時代の中期、下総板碑が出現したころと推定されました。大井地区の恩田家には、柏市域最古の文永2年(1265)銘の下総板碑が屋敷神として祀られていました(非公開)。やや小ぶりながらよく似た彫法の特徴から、「阿弥陀様板碑」も同じ時期の造立と考えられています。
阿弥陀堂
板碑の拓本(柏市教育委員会)
 板碑とは供養の為に立てられた塔婆の一種で、鎌倉時代には地方豪族や僧侶が、南北朝から室町時代には中流以上の庶民にまで建立が広がっていきました。材質から筑波山麓の黒雲母片岩製の下総板碑と、荒川流域の緑泥片岩から作られた武蔵板碑に多く分けられますが、手賀沼南岸は板碑の分布密度が濃い地域です。中でも多く確認されているのが大井地区で、断碑も含め、旧沼南町の調査で収録された428点のうち、122点と圧倒的な数を誇ります。大井地区にはこの地方を支配した豪族と、それを支えた人々が暮らしていたのです。
将門の伝承や板碑などから、鎌倉時代から栄えていたことがわかりますね。
実は、もっと遡ります。大井東山遺跡から旧石器時代の出土品があります。後の、縄文~弥生~古墳~飛鳥~白鳳~奈良~平安とずっと大井郷という地名がでてきます。
古墳時代から!すごいですね。昔からずっと人が住んでいたのですね。

大井の地名について【大井東山遺跡と大井郷】
 
昭和59年、霊園工事に伴って実施された発掘調査によって、弥生時代から奈良平安時代までの遺構が確認され「大井東山遺跡」と名付けられました。中心となるのは古墳時代の住居址35軒、奈良平安時代の住居址16軒ですが、後者から注目される発見があったのです。
船戸古墳
奈良三彩
【大井東山遺跡からの出土品】  
 掘立柱建物跡が見つかり、近くから「新生寺」と読める墨書土器が出土したため、調査担当者は高床式の寺院であったと推定しました。別の住居址からは、奈良三彩釉陶器の小壺も発見されています。役所や官寺などから出土するもので、庶民の生活用具ではありません。ある程度の位階を持った人物の持ち物なのです。大井東山遺跡からの出土品の一部は、福満寺に展示されています(事前の申し込みにより閲覧可能)。
大井東山遺跡から出土した鉄の塊

大井東山遺跡から出土した土器の陳列棚&石斧をふりかざすイナバ(気分は「はじめ人間ギャートルズ」)
つるっとした肌が特徴の、弥生時代の器ですね。弥生時代の寺院から出土したということは、お供えに使っていたのでしょうか?妄想がふくらみます。
他には、「奈良正倉院の資料」や将門についての基本資料である「将門記」からも、記述がみられます。

【正倉院資料】 
 
奈良正倉院の校倉には世界的にも貴重な宝物と共に、1万点に及ぶ文書が伝来してきました。この正倉院文書の中に、大井の地名が登場します。天平17年(745)、下総国相馬郡大井郷の矢作部麻呂(やはぎべのまろ)と矢作部広足(やはぎべのひろたり)は、それぞれ調・庸の布一端を納入したことが、両口布袋に書かれていました。調・庸は律令に規定された税で、布など各地の特産物を中央に納めました。石山寺造営にともなう写経事業に使役された人物の中にも、大井郷からの出身者が見られます。石山寺は現在の滋賀県大津市にあり、孝謙太上天皇と惇仁天王が造営を始めた保良宮(ほらのみや)に付属し、参籠した紫式部がここで『源氏物語』を執筆したのでは、との伝承も残る著名な寺院です。

【将門記と大井津】 
 
『将門記』は平安時代、将門の乱について紛争を起こした経緯から新皇として国への反逆し、死にいたるまでを記述した書です。乱の鎮圧後、それほど時代を経ずに書かれたとされ、将門研究の基本資料とされています。この中に「王城を下総国の亭南に建つべし。兼ねて檥橋(うきはし)を以て京の山崎となし、相馬郡大井の津を号して京大津と為す。」という記述が見られます。大正元年、風早尋常小学校の教諭であった関忠太郎は「風早唱歌」の中で、「大井は天慶3年に 将門よりしその時は 近江の大津になぞらえて 花の如くに栄えして」と詠いました。
冒頭でも紹介したとおり、大井という地名は「両口布袋墨書」「石山寺写経所解」といった正倉院文書や将門記に度々登場します。その比定地については諸説がありますが、大井東山遺跡の発掘成果や、中世から近世まで切れ目なく資料に登場することからも、柏市大井は最有力の候補地と言えるでしょう。
今回は、大井地区の福満寺を中心に、平将門にまつわるスポットをご紹介しました。柏にはまだ将門にまつわるスポットがいくつかありますので、またいつかご案内しましょう。
まさか、旧石器時代まで遡ると思っていませんでした!将門が目にした風景の面影を今でもどこかに残しているのかと思うと、ロマンを感じます~
では、次回の歴史発見の旅をお楽しみに~!

5.データ福満寺

宗派、名称   天台宗 教永山福満寺積善院
本尊      阿弥陀如来
住所      柏市大井1708
電話      04-7191-1469
交通アクセス  JR柏駅から東武バス「大井」下車、徒歩10分


御朱印

参考文献
『沼南町史 史料集金石文Ⅰ』
(御朱印)
(御朱印)
『沼南町史(一)』・『沼南風土記』・『沼南風土記(二)』

歴史発見ガイド人

髙野
タカノ
博夫
ヒロオ
プロフィール

柏の古文書や石像をず~っと調べて40年。
柏の歴史って素晴らしいので、ぜひお知らせしたいと思っています。