2024-02-08
1.はじめに~のどかな農村にたたずむ関東最古級の教会堂~
手賀地区は柏市の東部に位置し、北側には手賀沼を干拓した豊かな田園が広がります。かつて満々と水をたたえた手賀沼を望む丘に建つ一軒の萱葺屋根が、今回紹介する旧手賀教会堂です。民家を転用した教会堂としては日本でも最古級の建物で、千葉県の文化財に指定されています。手賀は中世の古文書「相馬能胤譲状案」(正木文書)にも登場する古村で、戦国時代の末期には豪族原氏によって城も築かれました。なぜ、ここに明治初期に教会が作られ、今日まで信仰の火を灯し続けてきたのか。第6回「こだわり・柏の社寺」では、手賀教会の歴史を訪ねます。
2.手賀教会の誕生
2-1)手賀教会ができた
手賀教会は正式な名称を「手賀伊望使徒教会」といい、ロシア正教の教会です。伊望は聖名イオアン(ヨハネ)の漢訳から来ています。手賀教会の活動は明治12年(1879)3月22日、手賀村の湯浅長左衛門ら13人が、佐藤パウェルの洗礼を受けたことに始まります。前年の11年5月、宣教師ニコライの布教によって大森聖神降臨教会が誕生した影響が大きく、手賀への伝教者は大森の宮嶋アファナシイでした。
2-2)正教会とは?
カトリックと共に旧教と呼ばれ、プロテスタントと共に世界の三大キリストの宗派となっています。日本に正教会を伝えたのはロシア人宣教師ニコライ(1836~1912)です。文久元年(1861)ロシア領事館の司祭として函館に着任し、日本語の習得や日本文化の研究に努めました。明治6年(1873)キリスト教禁教の高札が撤去されると、北から布教を開始し、日本全国に正教の火をともしていったのです。
2-3)入信した人々
最初に入信したのは仙台などの城下町に住んでいた旧武士たちでした。武家社会の崩壊により、精神的な拠り所を失った彼らが見つけた新しい価値観がキリスト教だったのです。こうした中で農村に誕生した手賀教会は、日露戦争などの逆境に遭いながらもなぜ今日まで、信仰の火を灯し続けてきたのでしょうか。
明治12年に洗礼を受けた一人、岩立家には手賀教会の資金管理などを定めた『大日本正教会基礎金簿』が保管され、設立当時の様子を窺うことができます。
資料の末尾には副伝教者を筆頭に執事2名、議友5名、参列員5名が洗礼名と共に列記されていました。執事は資金管理をはじめ、手賀教会の活動全般にわたって統括する中心人物で、サモン湯浅長左衛門(手賀)とアウラアム梅沢作兵衛(布瀬)が任じられました。
アウラアム梅沢作兵衛(布瀬)
梅沢作兵衛家のある布瀬村は「つ」の字型をした手賀沼に三方を囲まれ、村人たちは周囲を干拓しての稲作や、漁業・カモ猟など、沼の恵みを受けながら暮らしてきました。村の最東端、沼に突出した場所に立地する梅沢家も代表的な有力農民としての歴史を紡いできました。沼沿いには開墾人名を冠した「作兵衛新田」という字名が残り、明治期には手賀沼鳥猟営業組合の幹事長として、カモ猟組織の近代化も図っています。注目すべきは天明年間(1781~1789)から近年まで、紺屋・機屋を営んできたことです。原材料の買い付けから製品の出荷まで、利根川水系を利用して江戸と交流を続けてきました。次々と飛び込んでくる新たな情報は、大きな社会環境の変化を予感させるものでした。天保9年(1838)に生まれて激動の幕末を乗り切り、新しい時代を模索していた梅沢作兵衛にとって、キリスト教は近代化の象徴と映ったのかもしれません。
サモン湯浅長左衛門(手賀)
湯浅長左衛門は文政12年(1829)、手賀村の名主を務めた家に生まれました。ニコライは明治25年秋の下総巡回日記で「(略)手賀の信徒数は126人、(略)日曜日、礼拝に来る信徒の中で一番良いのはシモン(湯浅長左衛門)。ここの最初期の信徒であり、敬虔で教会のために熱心な老人である。(略)執事長のシモンもよい暮らしをしている。彼はある殿様の家老の子孫である。その殿様の城は、大体いまシモンの家がある辺りにあった。(略)」と、教会の重要人物として信頼を寄せるとともに、かつてこの地を支配した手賀原氏との繋がりにも触れています。湯浅家の主家であった原家とキリスト教とのつながりは後述しますが、文政8年(1825)この地を訪れた蘭学者渡辺崋山や近代に社会事業家として活躍した原胤昭など、手賀は教会を受容する土地柄だったのかもしれません。
2-4)山下りんのイコン
手賀教会では旧教会堂(建造物)と共に、山下りんのイコン3点(絵画)が千葉県の文化財に指定されています。額の裏面などに納入時期の記載は確認されていませんが、前述の岩立家『大日本正教会基礎金簿』の末尾2行に注目される記述が見られます。「至聖所新築、明治33年4月より着手、同年12月竣工ス、但新築費金68円18銭7厘、落成式ハ34年3月13日千葉司祭施行ス」に続いて、「聖堂入口上左右、聖像大額面三面分、主教尼适頼(ニコライ)閣下ヨリ御恵与給ハリ、但額縁ハ教会費ヲ以調整ス、其価格金拾五円八十銭也」とあります。千葉県指定文化財の三枚のイコンは至聖所部分の増築に際し、ニコライ大司教の名前で直接もたらされた可能性は高いでしょう。
3.手賀地区とキリスト教
3-1)手賀地区の歩み
手賀村は、嘉禄3年(1227)12月の「相馬能胤譲状案」(正木文書)に、布瀬村とともに登場する古村です。戦国時代末期には下総の豪族原氏の一族が、手賀沼を見下ろす高台に城を築きました。下総の守護職千葉氏の重臣であった原氏は、戦乱の中で主家をも凌ぐ力を持つようになり、現在の利根川水系にも進出して各地に支族を配し、手賀原氏などを誕生させていったのです。
3-2)江戸から明治へ、布教の歴史
江戸時代、徳川幕府は寺請制度を設け、仏教を保護し利用すると共に、徹底的にキリスト教を弾圧します。明治維新によって幕府が崩壊すると、新政府は国家神道の理念に沿って、神仏分離・廃仏毀釈などの政策を進めましたが、キリスト教については旧幕府の禁教を踏襲しました。(五榜の掲示に見られるとおり)欧米諸国の要求によってようやく解禁されたのは明治6年です。この高札撤廃により、近代化の波に乗ってカトリック・プロテスタント・ロシア正教などが布教を開始し、全国には多くの説教所や教会が作られていきました。
3-3)原胤昭
戦国末期、原本家は北條氏の傘下となり、豊臣秀吉の小田原攻めで運命を共にしますが、若き後継者原主水は、徳川家康に小姓として仕えます。しかしキリスト教に入信、幕府の禁教後も改宗を拒んだため、元和9年(1623)指導者として他の信者とともに火刑に処されました。一方、手賀原氏は、江戸町奉行所の与力として取り立てられ、幕末維新を迎えます。最後の与力となったのが、明治・大正期に社会事業家として活躍した原胤昭です。彼は明治7年アメリカ長老教会のカロゾルス師から、いち早く洗礼を受けますが、その動機について、著書『前科者はナゼ又やるか』の巻末で、「予が信仰の先祖は、殉教者の巨頭ヨハネ・ハラ・モンド(原主水)」と述べ、「手賀原氏の末裔であるこの体には、主水の血の一滴が脈々と流れている。私も主水のように『神の愛』をもって、世に恵まれない同胞を介抱していくのだ」と決意しています。支配関係が途絶えた江戸時代も、手賀村と原氏の関係は続いていたことが文書で確認でき、胤昭は手賀村を先祖代々の地として特別な思いを抱いていました。自身も何度も訪れ、やがてここに隠棲する希望を持っていたといわれています。
蛮社の獄で弾圧された蘭学者渡辺崋山は、文政8年(1825)銚子方面を訪れ代表作『四州真景図巻』を著しますが、旅の途中で木下街道を外れ、船に乗って手賀に立ち寄っています。本の中で「手賀島々中、千葉家老、備前守代々墓アリ、寺アリ」と、短い表現ながら記述がみられ、この地区について開明的な人々の間では知られていた可能性があります。カトリック・プロテスタント・ロシア正教など宗派の違いはさて置き、原氏ゆかりの手賀村にはキリスト教解禁後、直ちにこれを受容する親和性があったのかもしれません。