はじめに
柏市は昭和30年頃から劇的に人口が増加し、千葉県北西部の中核都市として発展を続けていますが、その原点はやはり明治の初期にあるようです。ちょうど令和5年は千葉県が誕生してから150周年。柏市域に住む人々がどんな影響を受け、街並みがどのように変貌していったのか。明治から平成にかけて、4つのテーマで取り上げていますので、紹介しましょう。
令和5年度歴史企画展「BACK TO THE KASHIWA」
開催期間 2023年7月25日(火曜日)~2024年3月3日(日曜日)
場所 柏市郷土資料展示室(千葉県柏市大島田48-1)
開館時間 9時30分~17時 月曜日休館(祝日を除く)
入館無料 無料駐車場あり(柏市沼南庁舎と併用)
1.千葉県の成立と柏市域
このコーナーでは、誕生当時の千葉県と柏市域にまつわる出来事を、高札などの資料や古文書を使って説明しています。
慶応3年(1867)王政復古によって成立した新政府は、翌慶応4年1月鳥羽伏見の戦いに勝利して江戸城を接収、徳川慶喜を上野寛永寺に退去させます。そして3月、人々に初めて見せたメッセージが「五榜の掲示」でした。内容は「徒党・強訴・逃散禁止」や「切支丹 ・邪宗門厳禁」など、旧幕府の禁制を踏襲したもので、御一新による日本の夜明けを待ち望んでいた庶民には、何も変わらない「がっかり」の内容でした。
明治2年柏市域の多くの村々を支配していた田中本多藩は安房長尾に転封。名称は葛飾県となり、明治4年(1871)廃藩置県による印旙県を経て、明治6年6月、木更津県との合併により千葉県が誕生します。
初代の権令(現在の知事)は柴原和(しばはらやわら)。龍野藩(兵庫県)の下級藩士出身で、木更津・印旛・千葉県へと明治13年3月まで、9年に及ぶ長い期間長官を務めました。この間、地方民会の育成・育児政策など、黎明期の千葉県で強力に文明開化政策を推進します。柏の人々にとって大きな変化の時が訪れたのです。
大小区制と地方民会
千葉県内を行政的にまとめ上げるため一六大区に編成され、柏市域は明治6年7月の時点で、第12大区と第14大区に所属しました。大区には正副区長、その下の小区には正福戸長が置かれます。やがて大小区会・町村会などの地方民会が開設。議事則が整えられ国会開設の準備が進められていきました。
明治7年5月2日、太政大臣三条実美の名前で地方官会議(県会)開催及び規則制定の達しが出されます。千葉県令柴原和はこれを受け、大小区会・町村会などの開設準備にあたりました。
明治9年(1876)、柴原県令は県治を進めるうえで欠かせない大区扱所に書記・司計を置く章程を定めます。日誌に登場する重城保(じゅうじょうたもつ)は、県会議長公選で初めて当選した人物。
印旙県からの通達
明治5年8月、印旙県から各村の名主を務めた家に大小区設定の規則写が送られました。庄屋・名主といった名称は廃止され、戸長・副戸長が誕生。それぞれの役割や給金が定められています。
展示されている史料は高柳村の名主を務めていた大久保佐左エ門家や、鷲野谷村の染谷大太郎家に残されていたものです。
戸長が事務を取り扱う場所は、正式に戸長役場と称するようになりました。この札は柏村・戸張村の戸長役場が置かれた寺島家の入り口に掲示されたものです。
葛飾県の凶作対策~義倉制度~
維新直後、関東地方は長雨に見舞われ、農作物は大きな被害を受けます。明治2年1月成立したばかりの葛飾県にとって、困窮した飢人の救済は重要な課題でした。そこで県は村内の農民を資力や家柄によって上農・中農・下農に分類し、上農から拠出する金穀によって救済する義倉制度を設立します。義倉は印旙県に引き継がれ、下農への貸し付けに当てられましたが、明治5年10月大蔵省からの達しにより、義倉穀は拠出者に返還され制度は終了しました。
葛飾県は明治3年10月、義倉制度の拡充を図ります。従来の義倉が村を中心とする区内であったのに対し、対象範囲をより広範な管内に拡大し「各地狂荒の処を救助する」としたもので、この札はこの時掲示されたものです。
国内の物資輸送を担っていた宿駅・助郷制度は、幕府の崩壊とともに廃止され、全国的な輸送組織である内国通運会社が誕生します。藤ヶ谷地区は布佐河岸と松戸河岸を結ぶ鮮魚街道の中間地点として賑わっていたため、相馬屋が取扱所となりました。
地租改正
新政府は、富国強兵の国作りに向け財政基盤を確立するため、地租改正事業を進めます。土地の所有者に地券を交付して所有権を認め、地価の3%を税として徴収しました。税額が高額であったため、農民たちによる反対一揆発生など混乱も招きましたが、今日に至るまでの租税制度の基礎となるものでした。柏市域の小金牧開墾地では、地券の交付をめぐって、開墾会社と入植者の間に深刻な対立を招きました。
明治6年7月地租改正条例などが整備されると、同年10月県令柴原和は全国に先駆けて「地租改正人民心得書」を県内に配布しました。基準となる土地の面積や地価などの調査を円滑に進める目的があったのです。
明治6年から7年にかけて手賀沼沿岸39か村の人々は、印旙県・千葉県に対し、沼の既得権を主張する資料を一斉に提出します。明治維新後、新政府は手賀沼など、旧幕府所有の荒蕪地を一般に払下げ、民間資金による開発を目論みました。これに対し印旛県は「手賀沼は、江戸時代から干拓事業が繰り返され工事が難航してきた経緯がある。権利関係が複雑で不明な点も多く、県で地形などを再度精査したい」と地元民に配慮した上申を行いました(明治6年3月28日)。
これを受けて新田村39か村が作成したのが、「手賀沼全図」です。寛文以来の干拓地で、享保期に検地された水田や、絵図作成時にはまだ芦などが生い茂る水内地所であったと予想される場所が「反高鳥猟場」などと詳細に記載されています。手賀沼を後世にまで残した貴重な一枚の地図です。
明治7年2月、布瀬村の湯浅与五右衛門らは県令柴原和あてに願書を出します。「この辺りは低湿地で、田畑はたびたび水害を受けており、収穫は不安定である。戸数も多く、なんとか鳥猟などの沼稼ぎでこれを補って凌いできた。運上金も納めてきたし、この場所を払い下げられては立ち行かなくなる」。さらに村々は明治七年七月、魚鳥猟を証明する下記の帳簿を、一斉に千葉県に提出します。「手賀沼猟業規則(布瀬村)」・「魚漁水揚高目方取調書上帳(布瀬村)」・「魚猟取高取調帳(鷲野谷村・染井入新田)」などです。沿岸村々の鮒・鯉・鰻などの淡水魚や鳥猟の水揚げ高・仲買人の氏名調書などを記載し、猟業規則に基づく地場産業であったことを訴えました。
2.柏駅前の変遷
このコーナーは、柏 駅前を中心とした街角の変化を、当時の商業施設のチラシ等を見ながら振り返ります。壁一面に張られた写真には、柏の懐かしい風景が並んでいます。「見応えあり」です。
また、柏発展の第一歩となった、鉄道開通に伴う資料も展示されています。日本鉄道株式会社社長小野義真から千代田村村長寺島雄太郎宛に出された手紙で、当時のどかな村であった柏市域が、東葛地域の交通の要衝となっていった貴重な史料です。
3.柏のスポーツ史
このコーナーでは、柏の輝かしいスポーツの歴史をピックアップし、思い出の記念品を展示しています。
大勢の市民が走った手賀沼マラソンや東葛駅伝。歴史ある八朔相撲にはじまり麒麟児など名関取が活躍した柏の相撲。高校野球では柏市立高校や二度の甲子園出場を果たした千葉県立柏陵高校の大会出場旗など。Jリーグ、柏レイソルのユニホーム。そして国民栄誉賞を受賞した車いすテニスの国枝慎吾さんの活躍など、栄光の歴史を彩った華やかな展示となっています。
4.柏の市民生活
このコーナーでは昭和30年代の柏の市民生活を再現しています。ちゃぶ台・うちわ・富山のくすり箱・使い古した扇風機・黒電話・テレビからカキ氷けずり機まで、懐かしい品々が並んでいます。
令和5年度歴史企画展「BACK TO THE KASHIWA」
開催期間 2023年7月25日(火曜日)~2024年3月3日(日曜日)
場所 柏市郷土資料展示室(千葉県柏市大島田48-1)
開館時間 9時30分~17時 月曜日休館(祝日を除く)
入館無料 無料駐車場あり(柏市沼南庁舎と併用)