はじめに
「元気で長生きしたい。経済的に不安なく心豊かに暮らしたい。」私たちの願いは昔も今も変わりません。こうした多様な願望を分担して叶えてくれるのが、恵比寿(えびす)・大黒天(だいこくてん)・毘沙門天(びしゃもんてん)・弁才天(べんざいてん)・福禄寿(ふくろくじゅ)・寿老人(じゅろうじん)・布袋尊(ほていそん)の七福神です。お正月には七福神を祀る社寺をまわり、その年の福徳と健康を授かりたいという「七福神めぐり」生まれました。近年では健康志向によるハイキングブームや、観光を兼ねた地域おこしの一環として各地に七福神霊場が作られ、七福神巡りが流行してきました。柏市でも平成21年、郷土史研究家として歴史散歩を主催していた赤間栄太郎さんらが発起人となり、「かしわ七福神創立を考える会」が結成され、「かしわ七福神」が誕生しています。「かしわ七福神創立を考える会」ホームページはこちら
※なお今回掲載した七福神の写真は、いずれも許可を得て撮影したものです。堂内安置のお像は、布施弁天の前立弁財天などを除き、通常は拝観できませんので、ご了承ください。
※実行委員会では、例年正月に「かしわ七福神めぐりバスツアー」を実施していますので、興味のある方はホームページでご確認下さい。(今年度は受付終了)
1.神明社と大黒天(だいこくてん)
「柏七福神」のうち「大黒天」を祀る神明社は、大津川中流右岸の塚崎地区に位置しています。神社の鳥居前は県道我孫子―船橋線が走っており、昔から交通の要衝でした。ここに建つ永木屋旅館には当時の古写真があり、かつての賑わいを伝えています。神明社は、この地方でも屈指の古社で正月三が日には木遣り歌などが奉納されます。(神明社 住所:柏市塚崎1460)
歴史に彩られた地域で、大津川(川の名称は近代に付けられたものと考えられています)は、相馬郡でも最大級の谷津であり、古くから米作りが行われ村が営まれてきました。当時、塚崎村は藤心と一体であったようです。藤心村が最初に古文書に登場するのは、鎌倉時代の嘉禄3年(1227)に書かれた新田岩松文書です。相馬義胤は娘の土用御前に五か所の所領を譲りますが、この中に藤心・手賀・布瀬の三か所が含まれていました。義胤は相馬氏の初代師常の嫡子で、鎌倉幕府創立時に源頼朝を支えた御家人の一人、千葉常胤の孫にあたります。土用御前はこれらの所領を持って岩松時兼に嫁ぎ、その後藤心村は土用御前から娘のとち御前に譲られ、岩松氏に伝領されていきました。
大黒天は、豊かな体で福耳、頭巾に狩衣、打ち出の小槌を持ち、大きな袋を担ぎ、米俵に乗っています。元々はインド・ヒンドゥー教の破壊神シヴァに由来する、恐ろしい表情の荒々しい神でした。やがて日本に伝わり、発音が似ていた出雲神話の大国主命(オオクニヌシノミコト、大黒=大国)と同一視されるようになると、忿怒の表情は笑顔となり、台所や財宝を掌る豊作の神・家の神として祀られるようになったのです。
【大黒天を祀る主な社寺】
香取鳥見神社(柏市布瀬1377)
「大黒天石祠」安永8年(1779)2月
「大黒天石祠」安政4年(1857)5月
宗賢寺(柏市塚崎)
「大黒天坐像」木造・三面六臂・像高21cm、江戸の講中によって奉納されたものです。(拝観はできません)
少林寺(柏市増尾1365)
「大黒天立像」木造・タワラまで一木造り・彫眼・像高8cm
2.福満寺と布袋尊(ほていそん)
正倉院資料にもその名が登場する大井地区。手賀沼の最奥部に位置し、たくさんの谷津田が入りこむ柏市内でも屈指の歴史ある村です。福満寺は、こうした谷津田の一つ(三反田)の上流にあります。最上部には山門を兼ねた趣きのある鐘楼堂が立ち、ここから境内が扇型に広がっています。中央には周囲の高台からの湧水を集めた弁天池が佇み、入口に布袋尊の石像が祀られています。(福満寺 住所:柏市大井1708)
七福神の中で唯一、歴史上の人物がモデルとされているのが布袋尊(ほていそん)です。でっぷりとした太鼓腹に福耳で、満面の笑みをたたえ、大きな袋を担いでいます。円満にして清廉な姿は、人々に愛され画題としても好まれました。中国唐代末の禅僧、契此(かいし)はこうした姿で諸国を放浪し、吉凶を占って外れることなく、雪の上に寝ても濡れないなど、伝説の人物となっていきました。これが弥勒菩薩信仰(お釈迦さまに次いで仏となり人々を救済)と重なります。布袋の担ぐ袋に中には財宝が入っていて、人々に分かち与えるとされ、現世利益の神ともなったのです。
3.戸張香取神社と寿老人(じゅろうじん)
かつて関東地方に内湾が広がっていた頃の名残である手賀沼は、海と直接つながっていました。西から来た人々が最後に上陸したのが、大津川を挟んだ戸張地区と大井地区です。一番割遺跡や城山遺跡・山田台遺跡などは戸張遺跡群と呼ばれ、悠久の歴史を伝えています。中世には相馬氏より分出したとされる豪族戸張氏が、市域で活躍していた様子が「本土寺過去帳」等から窺えます。戸張要害城や戸張城は戸張氏が築いた可能性が高く、城の規模を見ても同氏の勢力がかなりのものであったようです。(戸張香取神社 住所:柏市戸張1309)
戸張香取神社は字天神前に鎮座し、経津主命(ふつぬしのみこと)を祀っています。「神社明細帳」には近世初期の寛永3年開闢か」とありますが、戸張一族との関連も指摘されており、開創は中世にまでさかのぼることも考えられます。本宮は、千葉県香取市にある香取神宮で、鹿島神宮と共に関東屈指の名社。室町時代の応永25年からの社殿造営の時には、隣接する松ヶ崎から「御かわらの木」が調達された記録もあります。武神であるとともに水運の守護神でもあり、利根川水系の低湿地に多くの分社が勧請されています。柏市域で一番多いのも香取神社です。
寿老人(じゅろうじん)は、中国の仙人のように道教服を着て白髭を蓄え、杖を持つ長寿の神様。姿や御利益が似ていることから福禄寿と同体異名とされたこともありましたが、今日では別の神様として七福神に並んでいます。違いは福禄寿が鶴や亀を供としているのに対し、鹿を連れて桃を持っていることです。鹿も桃も長寿の象徴として考えられていました。福禄寿も寿老人も、健康寿命を少しでも伸ばしたいと願う、現在の私たちにとてもありがたい神様です。
4.豊受稲荷本宮(ゆたかいなりほんぐう)と福禄寿(ふくろくじゅ)
かつてこのあたりには徳川幕府の御用牧場である小金牧が広がっていました。牧の中に村はありませんでしたが、水戸街道は通っていました。江戸時代のはじめ、水戸藩の2代藩主となった徳川光圀は、領内の基盤整備に着手し、正保年中(1644~47)には水戸街道の付け替えも命じます。大雪や夜間、旅人が広大な牧場で迷うことがないように松並木を整備させたのも光圀でした。また、日光東往還の分岐点にもあたり、人の往来が多く交通の要衝でもありました。(豊受稲荷本宮 住所:柏市豊四季971-14)
明治2年、新政府は旧幕府関係者の窮民授産を名目に、小金牧と佐倉牧の開墾を進めます。開墾場は13か所で、物資輸送に便利な街道に沿ってつくられました。開墾地は初富・二和・三咲・豊四季・五香・六実・七栄・八街・九美上・十倉・十余一・十余二・十余三と名付けられ、1から十までは美称が用いられています。一年中作物が稔ようにという願いから名づけられました豊四季ですが、開墾地の生活は楽ではありませんでした。地区内に豊作をつかさどる稲荷神社が多く勧請されたのもこのためでしょうか。
こうした歴史を積み重ねた豊四季地区の中で昭和40年、伏見稲荷大社から御霊をお迎えしたのが豊受稲荷本宮です。この頃は柏市が、豊四季団地の建設などにより人口10万人を突破、新庁舎を建設するなど大きく飛躍しつつある時期に重なります。
福禄寿(ふくろくじゅ)は、胴体の半分ほどもある長い頭で、長い白髭を蓄え、右手に杖を持ち、長寿の象徴である鶴や亀を従えた仙人です。中国の道教によれば、人命を掌るとされる南極星(南十字星)の化身とされ、人々の願望である長寿の神様です。「福」は幸福、「禄」は好運と福財、「寿」は寿命を表し、この三要素をすべて兼ね備えた福禄寿。寿命数千年とされる福禄寿に、人々は子孫繁昌・富貴繁昌・健康長寿を祈りました。
5.大洞院と毘沙門天(びしゃもんてん)
大洞院は、花野井にある曹洞宗のお寺です。寺の歴史は古く、かつて大洞院があったとされる寺前弁天山からは、9枚の武蔵型板碑が出土しました。南北朝から室町期のもので、阿弥陀種字が刻まれていたことから、当時は天台系の寺院であった可能性も指摘されています。平将門が開基したという伝説も残されています。享和元年(1801)の宮殿奉加帳には「親王・平将門の霊場の寺院」とあり、絵師河鍋暁斎の画帳には、寺宝として将門の甲冑が描かれていました。戦国期、相馬氏の一族が守谷(茨城県)に城を築いており、将門を祖先と称した相馬氏の影響かもしれませんが、ロマンに満ちたお話です。(大洞院 住所:柏市花野井1757)
毘沙門天(びしゃもんてん)は、鎧兜に身を固め、右手に三叉の槍、左手に福徳の象徴である宝塔を奉げ、忿怒の表情で天邪鬼を踏みつけている神様です。仏教を守護する四天王の一神、北方の多聞天とされ、すべての事を聞き取ることができる知恵者でもあります。国土守護の武神ともなり、多くの武将の信仰を集めました。越後(新潟県)の戦国大名上杉謙信が、自らを毘沙門天の化身と称し、旗印に「毘」を掲げて戦ったことは有名です。
【毘沙門天を祀る主な社寺】
観音寺(柏市増尾1344-1)
「毘沙門天立像」木造・彩色・玉眼・像高9cm、江戸時代に法印蓮慶によって作られました。
興福院(柏市手賀712-1)
興福院は戦国時代末期、手賀城を拠点とした原氏のゆかりの古刹です。この「毘沙門天」はかつての末寺、千手院に祀られていたものです。
6.旭町香取神社と恵比寿天(えびすてん)
旭町香取神社は、明治2年新政府の窮民授産などを目的として行われた、小金牧開墾によって誕生した豊四季村の鎮守の一つです。本社は香取市の香取神宮で、明治22年に勧請されました。例年11月には境内に合祀されている大鳥神社は、大阪堺市に鎮座する大鳥大社から昭和37年に勧請されました。繁栄と火難防除の神様として、例年11月「酉の市」が開かれ大勢の人々で賑わいます。(旭町香取神社 住所:柏市旭町2-7-23)
恵比寿(えびす)は、烏帽子に狩衣、右手に釣り竿、左手に鯛を持つ恵比須は、七人の中で唯一日本生まれの神様です。元々、豊漁と航海の安全を守る海の神様として信仰されてきましたが、「エベスさん」と愛称されるように笑顔で、福徳を授ける神様となっています。
恵比寿信仰の総本社は西宮神社(兵庫県西宮市)で全国に布教活動を行っていきました。江戸時代には幕府から全国での、恵比寿神の御神影札の独占的頒布権を認められていたのです。若白毛(柏市)の小林家では、許可を得て恵比寿札を配りながら神職を勤めていました。同家には西宮神社の神主吉井良行から出された付与許可証(寛保2年・1742)や、神職免許状(宝暦12年・1762)が残されています。
【恵比寿天を祀る主な社寺】
7.幸町弁財天と弁財天(柏市柏4-10) 柏駅からほど近く、ビルが立ち並ぶ場所に弁財天の祠があります。社伝によれば、元々は築比地村(埼玉県松伏町か?)の大きな酒問屋に祀られていた神様でした。迎えた嫁が日頃から熱心に信心していて、夫が重い病に侵されたときも、奇跡的に回復するなど、弁天様の霊験によって一家は繁昌していました。ある晩、嫁の夢の中に弁天様が顕れ、ここより東の地に移り、人々を救いたいと告げ、この地の祀られるようになったのです。昭和46年の柏駅東口の再開発によって、若干移動しましたが、市街地の一角に鎮座し、地元の人々から信仰を集める弁天様です。
弁財天は七福神の中で唯一の女神です。色白で美しい顔立ち、頭に宝冠を戴き、琵琶を弾く姿が一般的ですが、柏市の布施弁天のように八臂(はっぴ・八本の腕)で、いろいろな道具を持つ弁天様もいます。サラスヴァティーをいうインドの水・河の女神で、さらさらと流れる水音から言葉や音楽の神となり、妙音天とも称されます。芸道・音楽に関わる人々の信仰を集めたのはこのためですが、とくに日本では農業に不可欠な水を掌ることから、財宝を施す神「弁財天」として広く信仰されました。池・川・沼・湖など、水に関する場所に祭られ、白蛇が弁才天のお使いになります。手賀沼など利根川水系に囲まれ、古くから米作りが行われてきた柏市にも、たくさんの弁天様が祀られています。
【弁財天を祀る主な社寺】
弘誓院「弁財天座像」
駒形(柏市片山1306)
「弁財天石祠」元禄16年(1703)2月
神明社(柏市塚崎1560)
「弁才天石祠」宝暦7年(1757)3月(2基あり)
香取神社(柏市藤ヶ谷686-1)
「弁才天石祠」宝暦10年(1760)11月
妙照寺前(柏市大井862-1)
「弁才天石祠」明和6年(1769)9月
福満寺(柏市大井1708)
池の中に祀られた弁天堂の本尊は、天保11年(1840)上野不忍池からの分身勧請さでたもので、弁才天の石祠も天保11年と考えられています。弁才天の版木は縦31センチで、家内安全と福徳円満を祈ったものです。
高柳1259-1番地先(柏市高柳)
「弁財天石祠」弘化3年(1846)2月
鳥見神社(柏市泉1358)
「弁才天石祠」文久2年(1862)6月
香取鳥見神社(柏市布瀬1377)
「弁才天坐像」は木造彩色で像高12cm、大正9年氏子惣代によって奉納されました。
「弁才天石祠」明治10年(1877)11月
香取神社(柏市藤ヶ谷686-1)
「弁才天石祠」年不祥
『沼南町史(一)』
『沼南町史 史料集 金石文Ⅰ』
『沼南町史 史料集 金石文Ⅱ』
『柏市史(沼南町史 史料集 金石文Ⅲ)』
『沼南風土記』
『沼南風土記(二)』
『柏市史 (沼南町史 近代史料)』
『一本道』平成25年大洞院
青いマークが「かしわ七福神」が祀られているスポットです。