2022-05-16
はじめに ~送り大師とは~
例年、新緑に彩られた5月上旬、菅笠に白装束の人々が、お寺やお堂を巡拝して歩く姿を見かけたことはありませんか?「送り大師」と呼ばれる初夏の伝統行事で、弘法大師の四国八十八ヶ所霊場を写した札所を、大師像を祀った厨子を背負いながら巡ります。今回の歴史散歩は番外編として、参加者数・巡行距離などからこの地域でも最大級の民俗行事とされ、近年は歴史遺産として注目されている「送り大師」を紹介します。
※コロナ感染症の影響で3年ぶりに開催される今年の「送り大師」は、感染を最大限に防ぐため、一般の参加は遠慮していただき、結願区(けちがんく)となった泉地区の方々のみで実施されました。
2022年度の「送り大師」の模様はコチラ
弘法大師空海と四国八十八箇所霊場めぐり
空海(774~835)は平安初期の僧で、日本における真言宗の開祖です。延暦23年(804)に入唐して恵果に学び、帰国後東寺や高野山金剛峰寺を経営し、真言密教を国家仏教として定着させました。また、讃岐の満濃池を修築し、教育機関を設置するなどの社会事業や能書家としても知られ、嵯峨天皇や橘逸勢(たちばなのはやなり)とともに三筆の一人にも数えられています。朝廷から贈られた、諡号弘法大師は代名詞となりました。大師とは偉大な導師の意味で、これまでに高徳の僧、複数に贈られていますが、「お大師さん」といえば弘法大師といわれるまでになります。やがて、誕生の地、四国の弘法大師ゆかりの地を、彼の威徳を慕って歩くことが流行します。霊場八十八箇所は室町時代に整い、江戸時代に最も盛んになります。
やがて、大師信仰の高揚に伴い、身近に巡拝できる四国霊場を写しが全国各地に設置されます。現在ではその多くが衰退する中「東葛印旛送り大師」はその規模から、宗派を超えた民俗行事として地域に根付いてきました。
「准四国八十八ヶ所東葛印旛大師巡拝(送り大師)」の成立
「東葛印旛大師(送り大師)」が始まったのは、文化4年(1807)、もしくは江戸時代末期の文政5年(1822)など諸説があります。手賀沼南部地域に四国霊場を模した八十八ヶ所の札所を設け、そこを毎年5月に弘法大師像とともに巡るという民俗行事です。200年余りの歴史があり、参加者数の規模から県内で最大級の民俗行事だともいわれます。
札所は柏市の東部、南部から白井、鎌ケ谷、松戸市域の一部まで分布し、巡拝道は80kmにも及びます。地域内の29のムラが講中の単位となり、それをまとめる大師組合という組織になっています。年ごとにお大師さまを講中で順送りすることから「送り大師」と呼ばれているようです(柏マニア:杉野光明さん記事「もうひとつの柏:送り大師」より)。
その成立から変遷
(1)文化4年(1807)貞福寺(八千代市吉橋)の存秀が下総の西南部に霊場を開創。
(2)文政5年(1822)距離が長すぎるため「吉橋大師」と「東葛印旛大師」に分割。発起人は高柳村の大久保氏と長全寺の弘豊。(3)弘化3年(1846)幕府は盛んになりすぎた巡拝行事を禁止。大師堂の取り払いを通達。大きな打撃を受けて衰退。
(4)慶応2年(1867)高柳村の大久保佐左衛門と長全寺の瑞宝らによって再興。
(5)明治維新後、新政府の廃仏棄により札所の移転。
※貞福寺(八千代市吉橋)の存秀が下総の西南部に霊場を開創。
巡礼の様子
毎年5月1日に出発し、八十八箇所の札所をめぐり5日に出発地に帰ります。
巡礼一行は2人が並び、「幡・先達・貝吹き・笈・講員」の順で進みます。
参加者の装束は、白衣に名号を書き、札所の朱印を捺した行衣(ぎょうえ)を着用しています。
札所ごとに、読経・納札・賽銭をします。
中食(ちゅうじき)と泊まり
・中食
かつては当番区が大規模な接待を行い、ご詠歌連や歌踊りでにぎわいました。若い男性によるご詠歌連が正装して奉納、娘たちも着飾って参加数少ない男女交際の場となっていました。
・泊まり
むかしは大勢がお寺に宿泊していましたが、交通機関の発達と経費節減のため「厨子」だけが泊まります。
結願(けちがん)とは
5日目に巡行がおわり、初日に出発した札所へ大師像を送り込む儀式です。「お練り込み」といい、行列は「露払い(獅子舞)」からはじまり「旗」「貝吹き」「万灯(まんどう)」「世話人」「稚児」「先達」「厨子」「講員」と続きます。
花火が打ち上げられ、5日間続いた、送り大師のクライマックスです。
旅へのあこがれ
江戸時代は、武士が支配する幕藩体制のもと、厳しい封建的身分制度がありました。庶民へは、「徒党禁止令」や「奢侈禁止令」など制約があり、今のようにイベントや旅行など、自由にできませんでした。ですが、規制ばかりしていては、庶民の不満もたまってしまいますので、幕府はガス抜きのため「信仰のためのお祭」や「寺社参拝のための旅」などは許可します。
江戸中期になると、庶民にも「四国八十八箇所巡拝」が広まります。食べたことのないもの・見たことのないものへの好奇心や、非日常の中に身をおける「旅」はあこがれでした。しかし、往来手形の取得や旅行費用の確保。道中の危険などのハードルがあり、まだまだ誰でも参加することは叶いません。しだいに地域の村々で皆が参加できるよう、全国的に「准四国八十八箇所めぐり」が設置されるようになります。
なぜ、今日まで存続してきたのか
「四国八十八箇所めぐり」を模した「東葛印旛大師講」では、札所の神社にも設け、地域内の社寺を巡行するコースにました。宗教宗派を問わず、地区の行事としたことで多くの方が参加できます。巡拝中での「接待」を通じ、人々の交流が促進され、かつ共通意識がもてるのではないかと思われます。また、人手不足の解消や物資の交換、男女の交際を促すこともできました。