息子が小学4年生の時、目をキラキラ輝かして学校から帰ってきた時がありました。「大野先生に版画を教わった。神だよ。」大野先生とは、ネコの版画とダジャレ・メッセージでおなじみの版画家・大野隆司(たかし)氏のことです。いくぶん皮肉屋な息子の心をもつかんだ「大野マジック」とは…。柏二番街商店会「いしど画材」で大野氏の個展が開催されるということを知り、さっそく取材に伺いました。
漫画が大好きだった少年時代
――先生は柏の多くの小学校で版画を教えていらっしゃいますよね。まず、そんな先生の子ども時代を教えてください。
大野:絵を描くのが好きで、漫画家になりたかったんです。あのころは『鉄腕アトム』とか『鉄人28号』などが流行っていた時代で、友だちと漫画を描いて交換したりしていました。今は「漫画(まんが)家」にならないで、一文字違いの「版画(はんが)家」になってしまいましたが(笑)。
――いきなり大野ワールドですね(笑)。漫画家の夢はいつまでお持ちだったんですか?
大野:小学校くらいで終わっちゃったかな。美大も受験したのですが、落ちてしまい、才能がないんだなと思って、描くのをやめて観るだけにしていたんです。
――では、一般の大学に行かれたんですか?
大野:はい。仏教にも興味があったので、文学部仏教学科に入学しました。今はインド哲学科と言っていますが。
――なぜ仏教学科を?
大野:若い頃はみんな多かれ少なかれ考えると思うんですが、人間はなぜ生きているのかということに興味があって。でも、ちょうど学生運動の激しかった時代ということもあり、結局、ほとんど学校には行きませんでした。
――学生運動の方を熱心に?
大野:いや、ぼくはノンポリだったので(笑)。父がそろばん教室を経営していたので、手伝っていました。でも、そろばんをやるより、子どもたちとなぞなぞをやったり、外で遊んだり、連載漫画を描いて配ったりしていました。
谷中安規との出会い――版画家・大野隆司誕生
――なぜ生きるのか…悩み多き青年時代をお過ごしになったようにお見受けしますが…?
大野:はい。コンプレックスの塊でした。
――どんなコンプレックスを?
大野:全部。絵が下手だとかいうこともあるけど、生きていること、存在自体がコンプレックス。
――今はどうですか?
大野:今は解消されています。生きているからお酒が飲める。おいしいものを食べられるって(笑)。
――コンプレックスがなくなったのはいつ頃でしたか?
大野:そろばん教室を手伝うようになってからかな。子どもと遊んだりして、自分の存在が認められる。そして、作品を作るようになってから、感動してくれた人によって、自分自身の存在がわかる、という相互作用が生まれるようになりました。
――コンプレックスがあるからこそ版画家になった?
大野:あったからこそ表現者になれた。モノを作る人って基本的に持っていると思います。人に何かした結果、自分が幸せになる。元々自分が幸せだったら何も作らなくていいわけだから。でも、若い時ってけっこうみんな劣等感あるんじゃないかな。
――版画家になろうと思ったきっかけを教えてください。
大野:そろばん教室の先生をしていた頃、谷中アンキ(※1)の作品を知り、影響を受けました。
(※1)谷中安規(たになか やすのり、1897年~1946年)。版画家・挿絵画家。モダニズム・仏教観・土着性が交錯した幻惑的な世界が特徴。内田百閒や佐藤春夫などの文人たちから支持され、本の挿絵や装画も手がけた。
――タニナカアンキ?
大野:本当はヤスノリ。版画家です。通称アンキさんと呼んでいます。
――谷中さんのどのような点にひかれたのですか。
大野:物語性があるところですね。ふつう挿絵というと本の内容の説明になりやすいんですけど、本の内容とは別の物語があるような挿絵を作っているんです。そうすると、絵を見ているだけで、お話が伝わってくるような――かといって、その本の内容と離れているんじゃなくて、本を読むと「なるほど」と思わせてくれる。絵に物語性を感じるようなものを私も作りたいと思いました。
柏とのつながり
――東京都葛飾区で生まれてお育ちになりましたが、なぜ柏で活動されるようになったのですか?
大野:父はそろばん教室を4か所経営していたのですが、その一つが柏だったんです。最初は通ってきていました。
――それで、柏に住むように?
大野:はい。教室の2階が住めるようになっていたので、せっかく家があるから柏に住もうと。そうしたら、いろいろな面白い人と出会えて、そこから交流が広がりました。
――柏を気に入っていただいたわけですね。柏のどんなところが魅力ですか?
大野:柏は文化的にすごい。ライブハウスがあるでしょう、画材屋さんがあるでしょう。画材屋さんがある町ってほとんどないんですよ。ギャラリーもあるし、子ども向けの本屋さんもある。中村順二美術館のような施設もあるしね。かなり文化的に充実している町だと思いますね。市立美術館があったらもっといいです。
――そろばん教室は柏のどのあたりにあったんですか?
大野:高田小学校のそばでした。そのため、生徒はだいたい高田小の生徒でしたね。その頃から柏第四小学校の評議員を務めるようになり、そのご縁で、初めて版画教室をやったのが四小だったんです。
(個展にいらっしゃっていた富勢東小学校元校長の石井礼子先生が加わり)
石井先生:今でも四小の玄関に、創立50周年の時に制作されたゾウさんのすばらしい絵があるんですよ!
大野:(笑)あと、創立55周年の時にアクリル画を11枚。四小はその他にもたくさん飾ってもらっています。当時四小の教頭先生だった石井先生が転任されたら、新しい学校でよんでくれて、またほかの先生が赴任先で…と、先生方のネットワークで柏の小学校で版画を教えるようになりました。
大野氏にとってのネコとは?
――先生の作品には圧倒的にネコが描かれたものが多いですが、なぜネコを描かれるのですか?
大野:ネコは元々好きだったんです。そろばん塾をやっている時に、毎回ノラネコが教室にやって来て、子どもに勉強をさせている時にスケッチしていました。最初はかなりリアルなネコを版画で作っていましたが、メッセージを伝えるために、だんだん立ちあがって人間っぽくなったんです。
――他の動物はどうですか?
大野:十二支の動物などは、その年に合わせて描きますが、ネコは曲線がきれいなので、ぼくにとっては一番絵にしやすいんです。
――ご著書『猫の幸福光線』(2000年、中央公論新社)の中で、「ネコは幸福光線が出ている」と書かれていますが、幸福光線って何ですか?
大野:ネコって寝顔を見ているだけで――赤ちゃんもそうだろうけど――それだけでかわいい、幸せになる。
――イヌは幸福光線出てないんですか?(笑)
大野:イヌ好きには出ていると思います(笑)。私もネコといっしょに飼っていましたが、イヌは動きすぎるから、光線というイメージじゃないかな。
――ネコは人の役に立ちたいという気持ちもないですよね。そんなネコがなぜ癒しになるんでしょう。
大野:以前「拾ってあげたのに、何も返してくれないな」って家内に言ったら、「いるだけで恩返し」って言われました。
――存在するだけでいいんですね。
大野:そういう人間になれたらいいよね。みんなが食べ物持ってきてくれるとか(笑)。
――そうすると、人は何のために生きるとお考えですか?
大野:若い頃ずっとそれを考えていたけど、結局結論が出なくて、うやむやになっている。
――探求しなくても生きていけますよね。
大野:そう。ネコは探求していないよね。途中からぼくも探求しなくなっちゃったな。お酒飲めるからいいやって(笑)。
思い出深い作品「よし!」
――絵にメッセージを入れるようになったのは、いつからですか?
大野:40歳くらいの時です。版画を始めて10年くらい経った頃から、作っているという自己満足だけじゃなくて、伝えたいという気持ちが強くなりました。
――何かきっかけがあったのですか?
大野:家内が病気で入院したことですね。「ごきげんいかが」という言葉を彫って、ネコとイカが踊っている作品(笑)。どちらかというと、家内よりも同じ病室の人たちの方にウケたんですけどね。
――先生の作品は基本的には誰かにあてたものなんですか?
大野:たいてい一人のために作ります。その人のために作ると、できたものが、同じような悩みを持った人に共感をもってもらえる。みんなにウケようとして作ると、わけがわからないものになってしまう。
――これまでで一番思い出深い作品はどんなものですか?
大野:うーん。(しばらく間。)絵の中にメッセージを入れている作家さんはいろいろいらっしゃいますが、ぼくは前向きなメッセージにしたかった。そこで、たどりついたのが「よし!」なんです。伝えたいからつい長くなってしまうけど、なるべく短い言葉にしたかった。20年ほど前に作ったものですが、今までの作品の中でそれが一番成功しているかな。
――成功というのはどういう意味ですか?
大野:自分の表現したいものができたということ。小さな作品で、(下の写真を指さして)あの絵と同じ形のネコの上に「よし!」って書いてあるんです。
――先生のメッセージは、みんなポジティブですよね。
大野:ネガティブなものは字を入れないで、絵だけになってしまうかな。時々不気味なものを作りたいとは思うこともあるのですが、今のような作品をずっと作っていると、暗い世界をイメージできなくなっちゃう。だから今はほとんど作らないですね。
――できない?
大野:今は人を励ましたいという気持ちの方が強いので。
社会派作品――命を大切に
――重いテーマを扱った作品も多いですね。
大野:はい。今の時期、とにかく自分の命を大切にしてほしいということを一番伝えたい。ぼく自身もぼくの知人も、近しい人が自死を選んでしまったという経験があります。ご本人もお辛かったと思いますが、残された家族やまわりの方々も自分を責める気持ちからぬけられない。そういう点で、「じさつぼうし」とか「つらくてもだめだよ。」のような作品を見てもらいたいですね。残された人のことをちょっとでも考えて、ふみとどまってくれればと。
――シリアスになりすぎないところがいいですよね。
大野:ダジャレでね。この作品(下の写真)は、コロナの自粛期間中に、柏の小学校全42校に配ったものなんです。
――みんなが見てにこっとなる感じがいいですよね。これマスクになっているんですね!
大野:今だからこそ、笑えるものっていうかね。大声で笑うんじゃなくて、くすっと笑える。でも、どうしても笑えないものもあります。これは(下の写真)、黒人男性が警察官に暴行されて亡くなった時に作ったんです。タイトルは「息が出来ない」。
――世界的にBlack Lives Matterとして大きなムーブメントになったジョージ・フロイドさんの事件ですね。
大野:はい。高校生くらいの子たちに伝わればいいなと思って。
――高校生くらいというのは?
大野:これから大人になる人に、アメリカでこのような事件があったことや、差別問題や命の問題を伝えたかった。ろうそくと花と写真は、覆面アーティストのバンクシー(※2)の星条旗が燃えている絵に描かれていたものを取り入れました。時々こんなふうに社会問題について作りたくなることがあります。
(※2)バンクシー。生年月日未公表。イギリスのグラフィティ・アーティスト。社会風刺的なメッセージをもつ作品が多く、世界各地でゲリラ的なパフォーマンスを行う。
今だからこそ
――これから挑戦したいことなどはありますか?
大野:今、電子画面ばかりでしょ、大学の授業も。だからこそ手刷りのものをもっと発信したい。印刷じゃなく、人が刷ったものをさわれるような。電子画面じゃなくて紙。手づくりのものがどんどん減っているけど、そういうものが心の痛みをやわらげてくれるかなと。これから大事になってくるような気がします。
――その他にやってみたいことは?
大野:一人でも多くの人を励ましたいね。偽善と思われてもいいから、とにかく人を励ますモノを作りたい。
――先生、今日はありがとうございました。悩みを抱えている方も、先生の作品を見たりふれたりして、元気や勇気を持ってもらえるといいですね。
大野:これ……「よし!」に変えたいな……。言葉が長すぎるのはよくない。よかったらインフォメーションセンターで飾ってください。「よし!」に書きかえるので。
こうして、「よし!」に生まれ変わったアクリル画は、現在、かしわインフォメーションセンター館内に掲示されています。
後日、石井礼子氏のお口添えで、柏第四小学校にある大野作品を特別に拝見させていただきました。四小では、20年以上にわたって、毎年、卒業文集の表紙には、生徒一人ひとりが創作した版画作品が貼られ、もはや四小の伝統となっているそうです。
案内をしてくださった現校長の岩田久美先生によると、小学1年生は「ネコちゃんだ!」と言って学校に親しみをもってくれ、高学年になってくると、時々立ち止まって見入っている生徒さんもいるそうです。何より、岩田先生ご自身が、ギャラリーと呼ばれる渡り廊下を歩くたびに励まされていると教えてくださいました。
知り合いの小学生たちに「版画家の大野先生って知っている?」と聞くと、名前までは覚えていない子どもでも、作品を見せると「知ってる!」と顔をほころばせます。また、学校で版画教室を体験した子どもたちは「(彫るのが)早い!」と、教えてもらった時のことを思い出して興奮気味に話してくれます。
「大野マジック」とは、そのテクニックもさることながら、生きることに、そして人に対して真摯な人柄なのではないでしょうか。「偽善と思われてもいいから、とにかく人を励ますモノを作りたい」と語る大野氏の言葉が強く印象に残りました。見る人に温かく寄り添い、勇気づけ励ましてくれる大野作品は、これからも柏の子どもたち、柏市民の心に深く刻まれていくのでしょう。
大野 隆司(おおの たかし)
1951年東京都葛飾区生まれ。1981年版画家の谷中安規作品に強い感銘を受け、独学で版画家となる。以後、書籍の挿絵、新聞の挿絵連載、柏市をはじめ全国各地、ドイツやオーストリアで個展を開催。柏市に約20年間在住していたこともあり、現在も市内の小学校で版画制作の授業を行い、柏市に数多くの作品を寄贈している。(公式Instagramはこちら)
取材日:2020年8月26日
取材場所:いしど画材(「大野隆司版画展」会場)
撮影:紅林貴子