【今回のテーマ】
ども、発掘隊長です。
前回の第1回は、「陸上の街道」と「馬(牧場)」をテーマに取り上げましたが、今回の2回目は、「水上の道」と「新天地を求めてやってきた先人たち」のご紹介です。
取り上げるのは「戸張一番割遺跡」!
銅鏡や銅製のヤジリに勾玉!なかなかの見栄えでしょ〜
ですが・・、マニアなら分かりますよね〜(笑)
注目するのは、こっちの土器です!
この時期の柏周辺の土器は、表面を〝なでる〟ように形を作って行きますが、この土器は〝たたいて〟形を作っています。このやり方は、近畿地方の作り方です。
【西からやって来た新たな文化】
土器の形や模様は時代時代によって変わりますが、そうは言っても、「お母さん!今晩はご馳走だね〜、どうしたの?」「そうよ〜、明日からは弥生時代よぉ〜」なんて言って、突然に変わるものではありません。
例えば、柏周辺の弥生土器は、歴史の教科書に出てくるような、ツルンとして、朱色に塗られているものではなく、縄文土器の縄目の模様を引き継いでいたりします。
縄目の模様「縄文」があっても、縄文土器でなく、弥生土器です!(笑)
ところが・・
弥生時代が終わり古墳時代が始まろうとする頃、それまでの弥生土器とも、柏周辺地域の古墳時代の土器とも全く違う様子の土器が、突如〝戸張の地〟、現在の日体大柏高校と戸張地区公園周辺の「戸張一番割遺跡」に現れます。
(古墳時代の土器を「土師器:はじき」と言いますが、ここでは分かりやすく「土器」のまま行きます。)
これらの土器には、近畿・北陸・東海地方の特徴があり、しだいに周辺に広がって行きます。柏の在地の人々が旅行先で作り方を学んで、真似をして作った・・ってことは到底考えられませんよね。この作り方を知った人々が移り住んで来て、柏の在地の人々と交流しながら、新たな生活を始めたのでしょう。
食材を調理したり、盛り付けやお供えをする土器という生活道具だけではなく、彼らの集落には、これまで柏には無かった集落を防御するための「環壕(かんごう)」を伴います。
そして何より、柏で一番古いと考えられる古墳を築いたのも彼らです(戸張一番割遺跡 1号墳)。この古墳の形状は「前方後方墳」であるものの前方部はまだ小さく、下総地域の中では最古、近県でも類例の少ない前方後方墳として位置付けられています。
柏市域で、戸張一番割1号墳の次に古いと考えられている古墳は、手賀沼の南岸、片山の「北ノ作1号・2号墳」です。いずれも前方後方墳ですが、この2つの古墳を比べると、戸張一番割1号墳と同様に前方部が小さな「北ノ作1号墳」が先(古い)、明らかな前方後方墳である「北ノ作2号墳」が後(新しい)です。その北ノ作2号墳の次、もしくは同じ時期の前方後方墳が戸張一番割遺跡から大津川を渡った大井にある「浅間古墳(前方後方墳)」と考えられています。
【戦争を知っていた彼らにとっての〝柏の地〟】
「戸張一番割遺跡」に伝わった他の地域の特徴を持つ土器や環濠に囲まれた集落は、谷津を挟んだ文京区立柏学園の「戸張城山遺跡」や手賀沼南岸の鷲野谷「幸田原遺跡」、さらには大堀川が手賀沼に注ぐ河口付近の「呼塚遺跡」へと広がって行きます。
面白いことに・・、というか・・、ビックリしちゃうのが!
大変な思いをして掘り上げたはずの戸張一番割遺跡の環濠は、しばらくすると埋められて、埋められた環濠の上に住居を作って、さらに集落は環濠の外に広がって行きます。
いやいや、ちょっと待て〜っ!って思いませんか?
現代の発掘調査で環濠に埋まっていた土を掘り上げるのだって大変な労力ですよっ!当時は、埋まった土ではなく、自然に堆積した硬くて粘り気のある関東ローム層を直に掘ってるんですから・・、その苦労を台無しにしてまで、埋めるかなぁぁ〜(驚)
で、話を戻します・・
その他のいくつかの集落で採用された環濠も、それ以上には広まることは無かったようです。
そう考えると、集落は環濠で守らないといけないと考えていた彼ら、戦争の恐ろしさを知っていた彼らは、故郷と同じように新たに住み着いた柏の地で環濠を築いて防御に努めたものの、その環濠の防御機能は活かされることなく・・、せっかく作ったものの必要性が無いほど、柏の地は平和だったのでしょう(^^)
【彼らは何故、移り住んで来たのか!】
当時、物資を携えて集団で移動するとしたら、舟しか考えられませんので、西日本から太平洋を北上してやって来たことは想像に難くありません。そう考えると、千葉県内の東京湾側にも同時期の遺跡があるため、東京湾から陸路を通じて柏の地へ・・・という可能性も否定はできませんが・・、東京湾側に伝わってから柏に来た!というより,直接柏に来てほしいですよねぇ~。というより、銚子から旧利根川で内陸に入り、分岐した手賀沼に行き着いたと考えた方が自然な気がしませんか!?
そして、その手賀沼の最奥(西端)に半島状に突き出した〝戸張の地へ辿り着いたっ!〟と。 そうあって欲しい〜! いやっ、きっとそうですっ!!
土器の形から考えられる年代は、西暦250年を過ぎた頃でしょうか・・
この頃、西日本で何があったのか・・
そうです!邪馬台国の女王〝卑弥呼〟が亡くなったのが西暦247年とか、248年とか。
魏志倭人伝によると、「卑弥呼の死後、倭国は大いに乱れた」と記されています。まさに戦争の時代です。
戦争の悲惨さを知った彼らは、平和の地を求めて舟を漕ぎ出し、そして辿り着いたのが〝柏の地〟だったのでしょう!
柏の歴史も、邪馬台国に繋がっているなんて・・
さすが「歴史まち柏」だと思いませんか〜