第1回の「陸上の道」、第2回の「水上(海上)の道」、第3回の「空の道」と、
これまで好き勝手に書かせていただき、後輩学芸員に「大丈夫なんですかぁ〜」と言われ続け、それを見てきたkamonのスタッフを不安がらせて来ましたが・・・
ここまで来たら、いっちゃいましょ〜(笑)
最終回のテーマは、
柏、いやっ、東葛地域の古代最大の謎!「古代東海道はどこを通ったのか?」
ども、発掘隊長です。
日本の古代国家は、律令制によって全国を一律に統治して行くために、その伝達手段として・・云々 なんて、難しい話は抜きにして、
平安時代の前半(西暦800年代後半から900年代後半にかけて)、「下総国府(現在の市川市)」と「常陸国府(現在の茨城県石岡市)」を結んでいた古代東海道が、どこを通っていたのか、今もって分からないんです。
街道がどこを通ったのかを考える時、馬を乗り継ぐために約16kmごとに置かれた「駅」(「駅家(うまや)」という)がどこにあったのか?が大きな手がかりになります。
「駅」というと、どうしても鉄道のイメージで、最近では「道の駅」もありますが、そもそも「駅」とは、馬を乗り継ぐために道にあるものだったんですね。「馬へん」なのも納得です。
で、話を戻しますと・・
文献の記録から考えると、柏・我孫子あたりに2つの「駅」があっていいはずで、
お隣の我孫子に、この時代の注目すべき遺跡「日秀西(ひびりにし)遺跡」があります。
日秀西遺跡からは、徴収した税や稲を納めたであろう「高床建物」跡も数多く見つかっており、近くからは「道の痕跡」も発見されたため、「古代東海道」が発見された!と報道されたこともありました。
我孫子の学芸員さんは「高床建物を古代の役所的施設とは言ったけど、あの道が古代東海道だとは一言も言ってないのに・・」と言ってましたが・・
茨城県側の「駅」があったと考えられている龍ヶ崎市半田町から日秀付近までは直線距離で約15km。日秀西遺跡自体が「駅」ではないとしても、古代の役所的施設として、その近くを「古代東海道」が通り、付近に「駅」があった可能性は十分に考えられます。
では柏のどこを通って、我孫子に至るのか?
マニアならずとも、そりゃ〜、夜も寝られませんよね〜
以前(第1回)に牧との関わりをテーマに旧水戸街道を取り上げましたが、旧水戸街道沿いの北柏駅周辺に気になる古代の遺跡があります。
我孫子に向かって旧水戸街道の右側(手賀沼側)は「中馬場(なかばば)遺跡」、左側は「花戸原(はなとばら)遺跡」と名付けられているこの遺跡は、これまでの北柏駅南口や北口の北柏台の宅地開発、そして近年の北柏駅北口の区画整理に伴い大規模な発掘調査が行われ、縄文時代から現在まで脈々と人々の生活が営まれてきた遺跡であることが明らかになっています。
そして、今回注目したいのは、この遺跡の古代(古墳時代〜奈良・平安時代)です。
この時代に築かれた竪穴住居跡は250軒以上、倉庫と考えられる「高床建物」跡も数多く一緒に存在していました。中でも2017(平成29)年の発掘調査では一辺7mの大型の竪穴住居跡とともに、一辺が約3.6m×5.4mの「高床建物」跡が、10棟も見つかったことから、当時の新聞でも「平安時代の公的施設か」と取り上げられたほどです。
そうですっ! この「中馬場・花戸原遺跡」が「駅」だったのでは?
ここを通って、旧水戸街道は我孫子に至ります。我孫子に入れば国道356号線。「日秀西遺跡」の近くも通ります。
これ、いけると思いませんか? いや、きっと、「古代東海道」は北柏駅前を通っていて、ここに「駅」があった!
市川の下総国府に付属していたと考えられる「駅」から、北柏まで直線距離で約16km。
距離的にもちょうどいい!
ただ、北柏から我孫子市日秀までは、直線距離で10km弱とちょっと近いんですよね〜
『柏市史』では、北柏の手前の「藤心」に「駅」があったと推定しています。藤心にはすごい縄文時代の大集落が見つかっているんですが、発掘現場感覚としては、平安時代の遺跡としてはやっぱり「北柏」なんですよね〜
柏マニア「歴史まち柏」の最終回のご褒美として・・
いいですよね? そういうことにしちゃいましょ〜!(笑)
【エピローグ】
話のついで・・、と言うか、忘れてならないのが、「中馬場・花戸原遺跡」のすぐ北にある「高野台(こうやだい)遺跡」、そしてその先、富勢西小学校の脇にある「宿ノ後(しゅくのご)遺跡」です。
「高野台遺跡」からは、下総国分寺から持ち込まれたと思われる軒平瓦(のきひらがわら)が発見され、
「宿ノ後遺跡」からは、奈良時代の三彩小壺や、和銅開珎が見つかっています。
いやいや、こんなの普通の集落じゃありえませんよ。都との繋がりがあったとしか・・
北柏地区、恐るべしっ!です。
我孫子以外の近隣市にも目を向けてみると、流山の鰭ヶ崎から三輪野山にかけても、平安時代の遺跡が多く見つかっており、これも気になるところです。
もし、仮に、市川の下総国府から、古代東海道が松戸を通ってさらに北上していたとしたら、そこは流山です。その流山からは大堀川沿いの「うなぎ道(なま街道・諏訪道)」を通れば、北柏の「中馬場・花戸原遺跡」に至ります。うなぎ道沿いには、西暦807年の創建とされる諏訪神社があり、古くから人々の往来があったことは間違いないでしょう。この「うなぎ道」を古代東海道と考える説もあります。
一方で、「うなぎ道」は大堀川沿いをその名の通りクネクネと蛇行していますので、もっと直線的なルートを考えてみるとしたら・・・
例えば・・、三輪野山の台地先端にある茂呂神社から北東に向きを変え、西柏台をかすめて、大堀川の北の台地をそのまま西へ進み、モラージュ柏の北をかすめて行くと・・・
おいおいっ!「宿ノ後遺跡」に行っちゃうぞぉ〜
ついでに、我孫子には向かわずに、そのまま石岡に向けて利根川を渡っちゃうとか・・(笑)
想像は広がりますね〜。興味が尽きません!
最終回をいいことに、言いたいこと書いちゃいました。m(_ _)m
まだまだ疑問は尽きませんが、柏市域には、古代から人々の交流・物流を支えた道があり、今もなお交通の要衝として発展する柏の姿には、その歴史が引き継がれているように感じませんか。