柏というと住宅地で、商業集積があって、近未来都市があって...
というイメージかもしれません。
しかし、私の暮らす柏市東部の手賀地区はここ50年の間、ほとんどその姿を変えていません。
柏のムラで生まれ育ち、30年以上農業をしながら見てきたことは、
もしかしたら「もうひとつの柏」かもしれません。専業農家三代目、よろしくお付き合いください。
さて、時節柄“送り大師”から始めましょうか。
“送り大師”というのは四国遍路をまねて手賀沼南部地域に札所を設け、そこを毎年5月の新緑の鮮やかな季節に弘法大師像とともに巡るという民俗行事です。200年余りの歴史があり、参加者数の規模から県内で最大級の民俗行事だともいわれます。
札所は柏市の東部、南部から白井、鎌ケ谷、松戸市域の一部まで分布し、巡拝道は80kmにも及びます。地域内の29のムラが講中の単位となり、それをまとめる大師組合という組織になっています。年ごとにお大師さまを講中で順送りすることから「送り大師」と呼ばれているようです。
2、30年に一度、お大師さまをお預かりすると、
巡拝行列やら稚児行列やらムラをあげての結願のお祭りをします。
前々回、わがムラに結願が回ってきたときには私が稚児になりました。
前回の結願にはわが子たちが稚児になりました。次回あるとすれば孫たちが稚児になるでしょう。
昔、稚児をやったという記憶が今の送り大師を動かしている気がします。
四国遍路は個人で巡礼するのに、送り大師では集団で巡拝する。
その道中では親戚や学校の同級生たちが待ち受け飲めや食えやと接待される。
こんなことを通じてこの地域の地域間、世代間の交流が促され、ひとつの文化圏が形成されてきたのでしょう。
今、講中の母体であったムラ自体が機能を果たせなくなっています。
結願を辞退するムラも出ています。巡拝者も高齢化していると聞きます。
送り大師はこれからも続くのか、不確実な状態です。
さらに今年の結願は新型ウイルス感染による緊急事態により巡拝行列も稚児行列も見送られるようです。感染の収束状況によっては来年もわかりません。
一度立ち止まって大師講のこれからを考えるよい機会かもしれません。
江戸後期、各地に『八十八か所札所』が生まれ、すでにそのほとんどが解散しているところが多い中で、なぜこの地域では続いてきたのか。二つの要因を考えてみました。あくまでも私見です。
一つは空間的広がり。
札所の分布は今日の行政区からみると不可解ですが、自然地形からみるとわかるような気がします。
鎌ケ谷の初富には大津川の水源があり、白井の平塚も冨塚も手賀沼の集水域です。五香も豊四季も大津川の分水台地上のムラです。
当時の支配層は、村人が水争いでいがみ合うのを信仰の名を借りて統治しようという思惑があったのかもしれません。
この広がりには田どころのムラも開墾ムラもあります。
巡拝で訪れた開墾ムラの村人に「今年も田植えをよろしくお願いしますよ」と接待したと、田どころの布瀬の古老から聞いたことがあります。
人の手で田植えをしていた時代の話です。
労働力の調達から物資の交換、姻戚関係へと村々の関係が発展したことは想像に難くありません。経済的な結びつきや姻戚関係が重なる複合的で強固な結びつきが今日まで送り大師を持続させてきた大きな理由であろうと思います。
もう一つはまとまりの寛容さかと。
弘法大師を宗祖とする真言宗以外の寺院も参加したり、札所が神社等にも置かれたりと、超宗派的、超宗教的というのが送り大師の特徴の一つです。
地域内の主な寺社に札所が置かれ、巡拝ルートはあたかも地域案内ルートのようです。
札所の番付にも不思議なことが見られます。
1番、2番札所が送り大師の発起人に関係の深い柏長全寺と高柳善龍寺であるのは当然のこととして、3番札所は塚崎神明社の近くの県道沿いにある高柳念仏堂跡にあります。結願となる88番札所は浄土宗の鷲野谷医王寺薬師堂にあります。
重要と思われる札所がなぜ念仏に関係する場所にしたのか。
実は医王寺にも念仏堂跡にもユニークな字体の“南無阿弥陀仏”と書かれた大きな石塔が立っています。
これは江戸後期の浄土宗の僧、徳本行者の名号石で、当時、江戸近郊の農村を中心に念仏講を組織し、関東、北陸、近畿まで「流行神」とよばれるほど熱狂的に支持されていたそうです。
大きな石塔を立てるほどですから、この地域でも熱心な信者が集まっていたのでしょう。徳本念仏講は一時幕府から庇護されていましたが、その後、数百人から千人以上の信者を集めるようになり解散させられます。
それが19世紀の初め、約200年前のこと。ちょうど送り大師が始まった時期に重なります。
たまたま当地では念仏講の解散時と合致したために、送り大師がすんなりと受け入れられたのではないでしょうか。
宗派や信仰などにこだわらずに。このような組織のまとまりに寛容さがあったことが今日まで送り大師が続いてきたもうひとつの要因ではないかと思います。
送り大師は地域の中での互恵関係を育てる一方で、お祭りの主体を回すことで競争意識をくすぐり村々の活性化を図ってきた文化的資産といえます。この資産をこれからの成熟社会における柏のまちづくりに生かせる姿を見つけられなければ、先人たちに合わせる顔がありませんね。