父が5年前に亡くなった時に菩提寺の泉・龍泉院住職から「お父さんが若い時に書いたものです」と冊子のコピーをいただきました。『泉の光』という名の冊子でした。70年以上前の戦後直後の旧手賀村泉というムラの青年たちが共に学び合い、延いては地域社会・ムラを変えていこうという趣旨で、昭和22年春に会員43名でムラ内の県議兼村長や寺住職が顧問となり『民主倶楽部』という集まりができました。『泉の光』は『民主倶楽部』の作った冊子でした。昭和23年8月から昭和26年6月にかけて計五冊が不定期で発行されています。会員は30代前半以下の世代で、ムラにいた年齢的に相当する若年層の多くが会員になっていたようです。
父が若い時にこういう活動をしていたというような話を聞いたことはありませんでした。当時、父は最年少で旧制中学出たての美少年?戦争帰りの猛者たちの間に入って若者らしい理想主義的な主張をしています(『泉の光』は柏市教育委員会文化課で画像保存されています)。
『民主倶楽部』がどのような経緯で発足したかは関係者がほとんど亡くなっている今日ではうかがい知ることはできません。しかし、発刊の言葉の次のような文章からは、われら青年がムラを、時代をつくっていくのだという高揚感と覚悟が感じとれます。
【民主主義の時代となったが、農村の如きは民主思想が遅々として浸透しないことは我々青年の憂うるところである。そこで、同志とともに『民主倶楽部』なるものをつくり、民主主義の徹底を図ることで住み良い郷土づくり、農村文化の向上に資することは青年の誠意ある熱意の存するところである】
その意気や良し。創刊号には顧問の寺住職から応援の言葉が送られています。
【青年は理想に生き、壮年は現実に生き、老年は過去に生きるというが、理想を打ち立て、絶えず努力をすることで価値ある充実した生活ができる】
龍泉院が活動場所も提供していたことから、先々代住職が青年たちの活動に深く関わっていたのかもしれません。
『泉の光』創刊号には「苦難を突破せよ」「納税に就いての所感」「頼りない総会に臨みて」という社会的な問題提起をする小文から「肥料の常識」といった農業に関わる小文が掲載されています。その中で『民主倶楽部』代表のOKさんが「私の研究と計画」と題して、手賀沼に面した水田地帯の灌漑排水設備計画を提案しています。
昭和13年、16年には下流の街が浸水する手賀沼水害が発生していました。戦後も昭和22年、23年、24年と3年続けて堤防から水が溢れ、周辺の稲作に大きな被害を与えています。当時働き盛りだったわが家の祖母は腰まで水に浸かって稲刈りをしたとか、稲を乾燥するオダごと刈り取った稲が流された、刈り取った稲を大雨の前に畳のあげた座敷に運んだこともあるというような話をしていました。
昨秋、古い母屋を整理した時、祖母の箪笥から昭和16年の新聞が出てきました。わざわざ被災時の新聞をとっておいて、水害の悲惨さを後世に伝えるタイムカプセルにしたかったのでしょう。
当時は、食料増産のための干拓事業や東京湾への放水路建設事業など、戦前からの水害防止対策推進運動が印旛沼手賀沼沿岸の有志たちにより行われていました。泉の青年たちもそこに明るい未来を描かないわけがありません。現在、手賀沼の治水は手賀沼土地改良区に引き継がれ、水害の心配をせずに稲作や生活が続けられています。OKさんはのちに手賀沼土地改良区の理事長を務めています。
昭和24年1月発行の第2号には「水稲多収品種選出の一考察」「小麦の移植栽培について」「肥料としての藻」など、昭和24年10月発行の第3号には「水稲増産の秘訣」「燻炭肥料について」「リン肥の施し方」など、昭和25年1月発行の第4号には「自給肥料の増産」「有益な胡瓜の促成栽培法」「三つ葉の軟化栽培」など、農業の若い担い手たちによる新しい農業技術の紹介や提案の小文が並んでいます。これらからは当時の農村の青年たちがいかに農業に対して熱意を持っていたかが伝わってきます。
冊子『泉の光』には農業や社会問題に関する小文のほか、ごく普通のムラの青年たちによる短歌や俳句も載っています。創刊号には9人、第2号には13人の会員が短歌を寄せています。最後まで短歌を『泉の光』に発表していたのは会員のKIさんでした。当時、旧土村でTKさんという方が短歌結社を主宰していて、周辺に多くのお弟子さんを育成されたようです。KIさんも弟子のお一人だったのかもしれません。
KIさんは『泉の光』第2号に水害をテーマとした短歌を載せています。
【ひたひたと波土手の上に水迫りふり雨あしが真白に煙る】
【泥土や土俵にたもつ堤防も明日は崩れむと稲刈りいそぐ】
今回のコラムのタイトル
【濁水の中にこくこく沈みゆく稲穂見つめてわれ等はたてり】
もそのひとつです。
KIさんは第5号に 次のような農村文化についての小文を載せています。
【学術的な知識も技術の乏しい農村で文化はできないと思われるが、短歌は心境を表現する芸術であり、自分を離れ、生活を離れてはあり得ない。農民は作物を育てるという重要な仕事をしている。自然の移り変わりに敏感に生活している】
だから、農民短歌はなりうるのだ、と。手賀沼の水害は長年、沼周辺の住民たちの前に地域課題として立ちはだかり、それに立ち向かう気持ちを醸成させ、地域の文化活動にも大きな影響を及ぼしてきたといえないでしょうか。
手賀西小学校の坂の下、吉祥院二十三夜堂の敷地内、大師講の二つの札所に並んで一基の歌碑がひっそりと立っています。
【どこ処までも歩みゆきたし尾根の上を行く雲にさえ憧れの湧く】
この短歌の作者もKIさんです。この歌碑は晩年の父と会員だった方の二人で資金を提供し建立したものです。学校に通う子供たちにエール送る内容の短歌を選んだようです。この歌碑と冊子『泉の光』5冊だけが70年前の『民主倶楽部』の活動を物語る形跡かもしれません。
第5号が発行されたのは第4号から一年以上も開いた昭和26年6月のこと。会員数も第4号発行時に50名だったのが、第5号発行時には36人に減っています。それ以降、『民主倶楽部』の足跡は見当たりません。
この地で生きていこうとした青年たちによって終戦直後の泉に農村文化運動が湧き起こりました。実際はどろどろとしたこともあったでしょうが、外のエネルギーを取り入れつつも自分たちの力を信じて自分たちの問題を解決しようとしたように見えます。これまでの半世紀以上もの間、この地で十分な環境の中で農業を営むことができてきたのも、そういう先人たちの熱い思いと懸命な働きの結実であるといえます。しかし、現在、人口の高齢化や減少による社会構造の激変、それに気候変動の激化やパンデミックなど、以前と比較できないくらいほどの大きく広範囲な社会変革の時代を迎えています。このような中でも地域に根付いた生活を構築していけるのか、それとも浮浪の民になりその日その日の生活を送ることになるのか。将来を決める分岐点にたっています。
『泉の光』第2号の巻頭に次のような一文を見付けました。
【わが農村は田、畑、山林と三拍子が揃った理想的な地域にある。畑も肥えているから大抵のものができる。…しかし、そのためか農民は割合にノンビリしているのではないだろうか。農は昔ながらのしきたりでやっていればそれでよいのだという安直な状ではないか】
いまはたくさんの消費者がお隣にいることも合わせると四拍子揃った地域です。地域が困難に直面した時、それを打開してきたのはいつも地域に根付こうとする青年たちでした。そういう先人たちと同じような熱量を持っているであろう青年たちを応援し、われわれもまた共に挑戦し続けなければなりません。