小学生にとって、新幹線に乗るということは、特別な時間。
いつも乗っていた水色の7両とは全然違う興奮の中、その子どもは目的地に近づいていました。
「え、、すげー都会…。」
大阪の方では、郊外でこんな大きな街があるなんて想像もしなかった、それが物心ついて、初めて柏駅で乗り換えた時の印象でした。
駅舎が増築される前、まだ階段が2つしかない頃のことでしたが、衝撃的だったのです。
ちょっと田舎だから、少し不便だぞ、って父親から聞いていたので、興奮はなおのことでした。
でもね、ちょっと田舎で不便。それは乗り換えて1駅先で降りたときに、また少しの衝撃とともに実感をしました。
「え、、なんもないやん。。」
本当に何もない。
加えて、小学校は多分4、50分かかるからな、という残酷なセリフ。
「そんなあほな…」
いや紛れもない事実を知ったその子どもは、引っ越してから4日間は転校先の富勢小学校に通うことはありませんでした。
1982年に、柏市に引っ越してきたときのこと。まだ住宅もほとんどなく、「陸の孤島」という言葉がぴったりの新居の風景でした。
皆さんが、「鎌倉」っていう言葉を聞いたときに、どんなイメージが頭の中に浮かぶでしょうか。
奈良の大仏を何度も見ていた後なもんだから、え、ちっさ。。なんて悪態つきながら出てくる大仏が思い浮かぶかもしれないでしょうし、
散策しながら街角で出会うおしゃれなお店が印象的な通りの風景が目に浮かぶかもしれない。
海沿いを走る江ノ電とそこに通う高校生の姿、なんて想像もあるかもしれません。
では、「吉祥寺」は?
行ったことが無い頃だって、おしゃれで便利。買い物するにはいいんだよ、なんて情報が頭に入っていて、実際に行ってみたら、
うん、柏よりも正直一回りでかいな。中道通りなんて、どこまでこんな素敵なお店が続くんだろ、、とか。
井の頭公園へのあの感じだよね、とか。人ぞれぞれ思うかもしれません。
「二子玉川」、「江古田」、「稲毛」、「大宮公園」、「佐原」、「三軒茶屋」、「西大島」、「入間」、「町屋」、「茨木」、「覚王山」、「常滑」、「紫波」、「サンタモニカ」、「カサ・ブランカ」
その街の名前を聞いたときに、その言葉を聞いて想像する人たちのイメージ=評価の集合体みたいなものが、その街の「価値」を決めるのではなかろうか、という仮説のもと、小齋は思いました。
皆さん、「北柏」と聞いてどんなイメージがありますか??
柏市も首都圏郊外の都市の中で、ご多聞に漏れず、そしてご承知の通り、東京の拡大に牽引されながら発展してきました。
日本の人口が減少となる中、まぁその中でのパイの取り合いみたいなところで、色んな要素があって、
まだ柏全体では人口も増えているし、楽観している趣も無くはないでしょうが、でもこのままでいいわけないよね、と考えている人は考えていますよね。
沿線偏差値みたいな指標が仮にあったとしたら、恐らく首都圏という枠でみたら40あるかないか、その程度の常磐線。
柏はその中では結構頑張っていて、というか頭抜けていて引っ張っているんだけど、でもそれも首都圏全体では、やっと50を超えている程度なんじゃないかなぁ、
という主観があるんですが、この先、これからは、選ばれる街と、そうでない街が2極化していってしまうような時代が来るかもしれない。
常磐線なんて、首都圏5方面で多分最初にその「青田刈り」(=住民人口の流出)にあうんではないか、という危惧があって、多分色んな人がそれを感じていて、
柏は頑張っている人が多い、そう感じています。
柏が沈むと沿線全部沈んじゃうよ、ていう焦りに近いもの、ありませんか?
で、柏は柏の街で頑張っているんだけど、その偏差値40そこそこの沿線で、そこの中でも低い側の方の街っていうのがありまして。。
その今の偏差値って、正直どんなもんだろうか。。いやぁ今はまだ数字として見たくないなぁ。。多分結構きついと思います。
だって皆さん、「北柏」って聞いたら、どんなイメージがありますか?
そして、今日はお休みだから、無条件で「北柏」に遊びに行こう!ていう感覚ってありますか?
北柏。これが、この柏マニアで小齋がテーマにするものです。
北柏楽しいことやっちゃおうプロジェクト、というエリアマネジメントをやる団体を立ち上げたのが2019年6月7日でした。
布施にあるコハレキッチンさんでした。
未来のこの街の持つ「価値」をどう作っていくのかを考えているのが、なんだか自分のライフワークになっていくんだろな、このままだとwみたいなことが、まさに現実となって進んでいます。
陸の孤島だった頃は、駅を出て南側は本当に行き止まりの袋小路。
北側に行く松葉町方面へのガードをくぐる道、
市境にある4m幅の対向車が現れたらどちらかがスタート地点までゼロリセットさせられる恐怖のこ線橋、
我孫子へと続く幅3mくらいの「ハケの道」だけが外界と繋がっていて、手賀沼沿いの今は桜台から印西までつながるあの道は大堀川の橋なんかもちろんなく、
我孫子側も北柏を出たらすぐ砂利道で、かつ行き止まりでした。
よくもまぁこんな所に家を建てたもんだと子どもながらに思ったりはしてはいたものの、
今は北柏ふるさと公園になった田んぼではイナゴを捕まえてその場で焼いて食べたり、
全く車の通らない都市計道路(↑の砂利道への道)でローラースケートしたり、
うちの斜め前に、今思えばこんなとこに普通お店ある?!ていうロケーションの落合商店で、駄菓子買いまくったり。
北柏台になるところはまだ発掘調査をしていて、ハケの道の街灯は裸電球で、富勢小は1学年8クラスでプレハブ校舎が校庭のトラックの上に建っていたり、
布施入口の交差点は、まだ戦時中の高射砲連隊の歩哨が建ってて、道幅が狭かったり、
駅の中のホームへいく階段が一つしかなくてクッソ混んでたり、
裏山の森にこわごわ入って遊んだり、こ線橋の上から電車の運転士に手を振りまくってシカトされたとかって悪態ついたり、
冬には建物の合間に富士山が見えたり。
今年で40年経ちました。今までとこれからの「北柏」について。 柏マニア 小齋隆宣