明けましておめでとうございます。私は三豊市で年を越しました。折紙と読書とゲームをしていました。
11月の共晶点は、私の折紙人生にてとても大きな機会でした。ご一緒させていただいた作家の方々、見に来てくださった方々、ありがとうございました。
また、かしわんタンタンさんに、その時の作品の詳細などを、記事にしていただきました。嬉しいです。

恥ずかしい話、この機会に際して一番頭にあったのは、名立たる方々の中に在っても、見劣りしない作品を、という恐怖と反骨のないまぜの思いでした。作品自体が本位ではなかったわけです。自信がなかったわけです。
しかし、今後は違うでしょう。共晶点を経て、視野というか、範疇が広がった気がします。
具体的には、これまでは「折紙」をしていたところに、台座や素材を接いで焼いて「作品」にしていましたが、素材や空間に関する視座が増えたことで、制作中の全体観が広がり、「折紙で作品」になった気がします。
それは過渡期であった「corrosion」と、本展に向けた「セミ」の、制作過程と展示の完成度で、確信しました。

余談ですが、折紙の素材が広がることが、折紙の世界を広げると思います。先程述べたように、良くも悪くも折紙は「折紙」することに尽きがちです。
それは折紙の技術の特殊性と、表現技法や表現対象などの狭さによります。
如何せん、我々は紙を折ること自体が楽しいわけですから、そこに終始しがちなのですが、「作品」を成したいなら話が変わってくると考えています。
先程のタツノオトシゴやセミは、「おりあみ」という金網で制作しています。
写真は、ステンドグラスで、鶴の展開図を制作したものです。「東大折紙」の出版もそうですが、折紙作家が思っている以上に、展開図自体の美しさへの感動は大きいです。
今後、展開図も含めた展示をしたいと思っています。

そういうわけで、私は芸術家になります。その言葉の重みを、実感し切らずに口走っています。
それは、自分の作品への向き合い方以上に、自分がそうであることが大きな意義を持つと考えているからです。
どういうことかというと、これからの社会はボトムアップが鍵であり、その象徴の一つがアートであります。
義務をこなしていく能力ではなく、やりたいことを推進する自発性と、そのやりたいことの審美性が大事です。
同様の構造が、教育と資源についても言えます。
前者は、詰め込まれる学校教育ではなく、本質的な力の下に学びを得ていくこと。
後者は、トップダウンのエネルギーだけではなく、地域主体の再生可能エネルギーで部分最適を生むこと。
どの分野であれ、個人や小さな単位から発せられるソフトの力が、相乗して社会が動くはずなのです。
であるならば、私はその体現者でありたいのです。折紙における芸術と教育、及び本職の再生可能エネルギー、これらを一人の人間が修めていることが、なんらかの意義になるのではないかと思い、日々生きています。
実は、柏がそういう場であってほしいという思いは、未だにあります。
とはいえ、折紙作品の制作は、別に打算的にやっているわけじゃないです。楽しいから折っています。
そして今年も、柏に関係したりしなかったりですが、色々と動きがありそうです。
今後ともどうぞよろしくお願いいたします。